フィロソフィーのレッスン1
「フィロソフィーのレッスン1」
フィロソフィーのダンス「ダンス・ファウンダー」がシングルとして発売される。昨年、アルバム「ザ・ファウンダー」が発売された際は、作詞家として全曲の歌詞にまつわる話を当ブログに掲載したが、今回ははじめての全国流通シングルとして「ダンス・ファウンダー」が発売されるこのタイミングで、フィロソフィーのダンスのフィロソフィー部分についてせっかくなのでもう少し踏み込んでかいてみよう。このような内容が過度に思弁的、あるいは抽象的になってしまうことで何かしらの機会を失っていることは重々承知している(からこそ、自分自身も音楽の道に進んでいるわけだ)が、とはいえある程度専門用語やまわりくどい概念を用いなければこれらをすべてを説明することができない。
ただし、もちろんここで書こうとしていることは、それらの方法によって説明されることが曲の解釈の方法というわけではなく、あくまでもこういうスタンスでかかれたということにすぎないということだ。つまり、別にこうよまなきゃいけないんだからね!というものではなく、発想の源泉にはこんなものがある、という話でしかない。
音楽的な部分はアルバム解説時にされており、またそれはなおのこと、音楽を聴いている人にとっては別にいまさら説明されるようなことでもないのだけれど、フィロソフィーの部分に関してはやや導入的な説明があっても余分ではないだろうし、それができるとしたらこの場でしかないので、それをやってみようということである。
ちゃんと、ダンス・ファウンダーの説明までたどり着けるように、まずは準備から。
まず、以前から提示しているようにフィロソフィーのダンスの楽曲群は、あきらかに哲学史的なバックグラウンドをもっている。ざっくりといってしまえば、哲学の歴史においてテーマになった事項を、再提起しているということでもあるし、さらにつっこんだことをばらせばどの曲も一つ、二つ程度の明確な参考文献がある。
これについては、以前なんらかの媒体でも話したのだけれど、毎回それを具体的にあげるのはやめにした。それははっきりいってそれをいってもぜんぜん面白くないからだ。(読みたい、という人には教えるけれど)
哲学というのはあらゆる学問の中でもかなり歴史は古く、その時代ごとに多くの哲学者たちが多くの問題に頭を悩ませてきた。当たり前だけれど、僕がその全てを知っているわけもないし、当然知っているものであってもそのほとんどは理解できていないといえる。そもそも理解できているものはひとつもないかもしれない。
話が大きくなるが、哲学というのがテーマにあがるときに経験的(この言葉は哲学では時々別の意味につかわれることもあるので要注意。ここでは経験からという意味)にみて、一番多い質問が
Q.1「哲学に答えってあるの?」
というものだ。
この質問になんの前提もなく答えるのはかなり難しい。まあ、答えがなさそうにみえるのもわかる。なんで2500年もおんなじようなことを考え続けているんだ、とそんな感想をいだくのも仕方ない気がする。
そこで、ひとまずこの問題や、その他ここから先の多くの問題に取り組むためにも、このQ.1に対して、普通「哲学者」といわれる人がどのように反応するか、ということを述べておこう。つまり、哲学者は普通こんなことを考えている、とか、哲学ってああこんな感じの考え方ねってというところを感じてほしい(まあもちろん、みんながみんなそうというわけではないのだけれど)
A.1「「答え」って何?」
多分、哲学者ならこういうだろう(数学者でもいいそうだけれど。)。もっといえば「哲学」って何?とか、「ある」って何?とかそういうことを言い始めるかもしれない。
それは揚げ足とりではないか、という声がたくさん聞こえてきそうだが、それはぜんぜん違う。別にあいてをやりこめようとしているわけではなくて、哲学の問題解決方法のひとつがこのような考え方なのだ。
「答え」というものが、何かわからなければこの問題に対応しようがない。
ではとりあえず少し、この問題について実際に考えてみよう。
答えとはなんだろうか。それは質問、問題に対して、それにあてはまるもの、あるいはそれを説明するものだ。つまり、答えがあるならばその前に質問や問題があることになる。「哲学に答えがあるのか?」にこたえるためには、「哲学の問題とは何か」がまずわかってないといけない。
ここまでOKだろうか?
というのも、
感覚的な問題だが、哲学のまずやっかいなところは、ここにあるように思う。
つまり、この「哲学の問題」というやつが、理解しがたいあるいはあまり見かけないものなのだ。
何が問題とされているのか、わかりにくいので、哲学に対してQ.1のような問いが出てきてしまい、かつA.1のようなしょうもない答えが出てきてしまうのだ。
さて、では「哲学の問題」とはなにか。例えば数学だったら
Q.2「立方体に頂点はいくつあるか?」
とか、
Q.3「リーマンのゼータ関数が負の偶数か実部が1/2の複素数しか零点をもたないのは真か?」
とか、そんな感じの問題でそれが解けるかどうかは別として、答えはある。
たとえばQ.2は「8」という数字を答えればよいし、Q.3は問題の内容はともかくとして真か偽か(つまりまるかばつか)どっちかなのだから、どっちかには決まる。つまり、答えはある。
しかし例えば哲学の問題というのはこんな感じだ。
Q.4「なぜ何も存在しないのではなく、何かが存在するのか?」
これは確かに答えがあるのかないのかよくわからない。そもそも「なぜ」というはあまり良心的な問題設定とはいえない。(よく「なぜ」を考えるのが教育では大事という話があり、その通りとは思うのだが)「なぜ」ということが問われるのは例えばこんなケースだ
Q.5「なぜ風邪をひくと熱が上がるのか?」
ところがこの問題は、実際にはこういうことをきいているだけである。
Q.5’「風邪をひくと”どうやって”熱が上がるのか?」
つまり、風邪をひいたときに体温があがる体のメカニズムについてきいているわけで、答えるべきことは実はwhyではなくhowなのである。
実際にはそう考えておかなければ、なぜ、という質問をつきつめていけば、必ず無限後退(永遠に問題がおわらないこと)に陥ることになる。
なぜ風邪をひくと熱が上がるのか→体温をあげて自然治癒するため→なぜ体温をあげると自然治癒されるのか→以下いくらでもその理由を問える
しかし、Q.4に関しては
Q.4’「どうやって何も存在しないのではなく、何かが存在しているのか?」
という問題はQ.4と同じ問題とはいえない、あるいはここで望まれている問題とはいえない。
たとえば、「存在」というものを「物理的なもの」であると考える人にとっては、Q.4’は物理学の問題だろう。宇宙が最初にどうはじまって、どのように物質ができたのか、とかそういった問題でそれらはもちろん重要な問題なのだけれど、ここで問いたいこととは別のことだ。
例えば、「愛」というのものは確かにあるように思うのだけれど、これだってなぜ「愛がないのではなく、愛があるのか」という問題がありえて、これは同じようには説明できない上に、実際に「どうやって」という風に問題をおきかえるとどうもしっくりこないことがよくわかるだろう。
というように、
そもそも哲学においては
Q.4
のような問題を考えるが故に、まずスタートからしてかなりややこしい問題を抱えてしまう。
まえおきだけでもこんなことになってしまうのだ。
さて、では例えば哲学でよく問題とされるものが何かということについて、ざっくりまとめておこう。
・存在
・精神、心
・自由
・時間、空間
・認識
・神
・生命
・言葉
・科学
・人間
どう考えても、一筋縄ではいかなそうな問題ばかりだ。というか、こうしてあげてみるとやはりどう考えても
「哲学には答えがない」
と、といってしまいたくなるだろう。
哲学者たちは、その問題に対応するためにかなり色々な方法論を生み出してきたのだけれど、当然それをすべて説明することはいまだにできていない。できていたらそれで基本的には終わりなのだから。しかし結構いいところまでいったすごい人たちはいて、彼らの考えを借りることによって、上記の問題の一部に関しては、我々がそれを考えるヒントを得ることができるのだ。
実際には「哲学」という言葉で行われているのはそんなようなことだろう。
2に続く