毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

フィロソフィーのレッスン2

さて、では哲学的でよく問題にされるものとして前回あげたものをもう少し細かく見てみよう

・存在
・精神、心
・自由
・時間、空間
・認識
・神
・生命
・言葉
・科学
・人間

この中で、例えば精神や心がどういったものなのか、あるいは神とは何か、といったことは比較的哲学の問題であるということがわかりやすいものかもしれない(問題の内容が「わかりやすい問題」というわけではない)
哲学以外はこれらの問題を扱うのが難しい、といってもいいかもしれない。

実は「存在」という問題も、哲学に固有の、そしてまさに哲学というものがはじまったときからのとびきりの難問である。

前回の

 

Q.4「なぜ何も存在しないわけではなく、何かが存在するのか」

 

という問いが、それを方法論的な問いに変換することによって(「どうやって何かが存在しているのか」という問題におきかえること)、それを物理的な問題にかえる(哲学ではこのようなときに「還元する」という用語を用いる場合がある)ことで解決することは難しいということは確認した通りである。

つまり、

たとえ、存在しているもの例えば目の前のこのコンピュータが、どんな分子、原子、さらに小さな素粒子でできているということがわかったとしても、それが「なぜ」存在しているのかということの答えにはなりえない。やや暴論になるが、物理学との比較で言えば、物理学の法則が「なぜ」成り立つのか、ということに関して、物理学自体がそれを説明することは難しいということとこれは似ているだろう。
また、そもそも存在するものというのが、物理的な対象だけとはもちろん限らない。

だから、Q.4はこのような別のタイプの問題に還元することは難しいし、前回の冒頭部でのべた哲学者的な考え方からいえば、このような問題を考えるもっとも基本的な方法のひとつは

 

Q.6「存在」とはそもそも何か

 

を考えることになるといえるだろう。

ということで、天下り的ではあるが、「存在」そのものを議論することが哲学的な問題であるということが確認できた。
さて実際、「存在」とはなんだろうか。

いよいよ、この辺りからは哲学らしい話になってくる。存在とはなにか、ここでそれを簡単に説明できるわけはないだろうことはここまで読んでいればなんとなく想像はつくだろう。
実際それを考えることは、あまりにも「漠然としたこと」のように思えるからだ。

例えば、「なぜ早起きができないのか」という問題だったら、我々には考えるヒントがたくさんある。仕事のこと、睡眠時間のこと、気温、季節、色々要因をかんがえて、そこから何らかの答えを導くことができるだろう。
しかし存在、となると実際に我々があつかっているものはすべてなんでも存在しているのだから(これも本当にそうかどうかは難しいが)、そもそもヒントも何もない。

そこで、とりあえず方針をかえて、以下のように考えてみる。

 

Q.7 Q.6を考えることはなぜ難しいか?(存在とは何か、を考えることの難しい点は何か)

 

ひとつの大きな答えは、直前に書いた通りで、我々が対象として扱えるものはそのほとんどすべてが存在であるからだ。
これを書いているコンピュータも存在しているし、キーボードをたたく手も存在している、そして我々があつかっているこの言葉も存在しているし、Q.7という問も存在している。
このように考えると、「存在とは何か」の答えは少なくともこれらのすべてを満たすようなものではなくてはならない。しかしこのコンピュータと、Q.7に共通するものを見つけるだけでも相当やっかいなことを容易に想像できる。

今、この難問を大雑把に解決する方法はこうだろう

 

A.6 存在するものとは「〇〇は存在する」という文の、〇〇に入りうるものである。

 

このA.6は上記のコンピュータであれ、手であれ、言葉であれ、Q.7であれ、すべてを網羅している。少なくとも、存在するものはすべてこの文の〇〇に入りうるだろうから、これはかなり有効な戦略に思われる。

しかし、この回答はなにか奇妙な、しっくりこない感じがするだろう。そのように思うのは、実際ごく自然なことであるように思う。
それはまず一つには、これが論点先取をしていることに起因するだろう。

つまり、「存在とは何か」にこたえるために、「存在」という言葉を使ってしまっていることだ。存在するものを「存在するもの」と書くことにして(このあたりは何がなんだかよくわからなくなってくると思うが、すこしだけ我慢して読んで見てほしい)、A.6に当てはめてみる

 

「存在するもの」は存在する

 

という文が成り立つことになる。しかしこれはほとんど何もいってないような気がする。コンピュータとはコンピュータである、という絶対になりたつが何の意味もない説明と同じような感じがするのだ。
これは実際には別ものなのだが、違和感の元になっているものは比較的近いのでここではこれくらいに止めよう(興味ある人は考えてみると良いと思います)

他にも

 

「入りうる」とは何か、という問題もある。

 

例えば

「竜は存在する」

という文を考えてみよう。これは少なくとも文としては成り立っている気がする。つまり、この文が「正しい」か「間違っている」かは別としても、この文には何らかの意味があるように思われるので、少なくとも「竜」は「〇〇は存在する」という文の〇〇に「入りうる」もののように思われるのだ。

ところが、竜は存在しない。
(竜だともしかしたらいるかもしれないじゃないか、という人は「空想上のいきもの」とおきかえてもよい)

存在に関して、この方針をとりつづけるのであれば「〇〇は存在する」という文が「成立する」とは何か、という問題に関して扱わなければいけなくなる。

 

Q.8 文が成立するとは何か?

 

こうして、問題は「言葉」の問題に変化してきた。
前述のとおり、言葉というのも哲学の主要なテーマのひとつであり、しかもそれらはまったく別の問題なのではなくてこのように大きく関係している。

もちろん、

Q.6に対する方針として、このような方法以外で考えることも可能で、例えば

 

A6’ 存在するものとは、認識の対象になるものである

 

というふうに考えるとすれば、もちろん例にあげたものもカバーされるし、上記のような言葉におきかえることでは解決しなかった問題も解決されるかもしれない。
すると今度は認識とは何か、あるいは認識を可能にする精神や心とは何か、というような問題になってくるだろう。

というように、実は上記のいくつかの哲学のテーマはそれらが関連し合うことで余計にその内容を複雑化させているともいえる。

だから、実はこの問題を扱っている、という主張すら本当にそのような中身のことを論じていることの保証にはならないし、読む側や聞く側もある程度それを意識しておかないといけない、そんなものになっている

 

3に続く