毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

ウラシマ効果

特殊相対性理論によれば、より光速に近い速度で運動する物体は静止している物体に対して時間が遅れる。これは別に光速に近いほどのすさまじいスピードで動く必要もなく、静止している物質よりも相対的にはやく動く物体は時間が遅れるということである。高速で移動する宇宙船での旅行から帰ってきた人が地球に戻ってみると何千年もたっていた、というようなSFでもこれはよく語られることであるが、これは絵空事でなくれっきとした物理的事実である。

 最近、長距離移動が多くいろいろなところでライブをしているが、飛行機や新幹線で移動すると当然この効果をうけることになる。つまり相対性理論によれば東京にとどまっているよりも、色々なところに速いスピードで移動した方が少し年を取らなくてすむのである。

 ミュージシャンは年齢よりも若く見える人が多いというが、もしかしたらこの効果を受けているのかもしれない。一方で、あきらかに年齢よりも年上にみえる、あるいは若く見えないミュージシャンはツアーには影武者が出かけていっているのかもしれない。

 

すべてのみちは

すべての道はローマに通ず、という言葉がある。道という言葉の定義は非常に厄介であるというのはすでにお察しの通りであるが、ひとまずそのようなことをいったんおくとこれを真であるとしたとき、ひとつのかなり重要な結論が出てくる。それはつまり「あらゆる道はあらゆる場所に通じている」ということである。すくなくともローマさえ経由すればいけないところは(道がつながっている範囲であれば)存在せず、すべての場所に到達することができる。

 はじめてこのことわざを聞いたときにそのように思ったのと同時に、イメージとしてローマというのは円の中心にあってそこから放射状に世界のあらゆるところに道がのびているということを想像した。しかし実際にはよく考えてみればすべてが一次元的につながっていても、つまり直線上に並んでいてもよいわけである。

 

何かしらの専門的なことに従事していると、どうしても自分のいる場所が中心であるように思えてしまってそこから放射状にさまざまなことにリンクしているように思うし、まったくつながってないものがあるようにも思う。しかし実際にはすべてはつながっているし、そのつながり方は「つながっている」という事実からだけはわからないということになる。つながり方をしろうとおもったら、まず最初は地図なしでもその道を歩いてみようとするほかない、という結論に結局は思い至ることとなった。

正しさと証明

 

形式的な論理学をある程度学ぶと、常に真であることと証明が可能であることの関連性についての話が登場する。普通に考えると「正しい」ものは「証明可能」であり、また逆に

「証明可能」なものは「ただしい」ということができそうだ。ゲーデルの完全性定理は一階の述語論理に対して、これを証明したわけだが(と書くと、本質的に非常に紛らわしいといつも思うのだが、そもそもこの紛らわしさを紛らわしさとして受け取る人の閲覧を前提としてないような気もする)、当然それ以外ではこれは必ずしもいえない。

 

ところで、実際に現実のレベルでも証明出来ることと正しいことの間にはギャップがある。よく子供にある事象について「なぜそうなるのか」あるいは「なぜそう思うのか」と訪ねると「本や新聞にそう書いてあった」と答える(大人でもそう答えるような気がするが、そういう人を子供と呼んでもよいだろう。いや、これは子供に失礼だろうか)。例えば「「ある種の漫画やゲームは犯罪の温床である」と新聞に書いてあった」とする。子供は「新聞に書いてあることはすべて正しい」と考えているとすれば、「ある種の漫画やゲームは犯罪の温床である」が帰結する。この推論には間違いは一切ない。この子供は論理的であればあるほど、このような答えを正しく導くことが出来る。(これは一般的に三段論法とい言われるものでAならばBBならばCの両方がなりたてばAならばCがなりたつという考え方のことであると思えばよい)。

 

考え方は完ぺきに正しいが、「新聞はすべて正しい」が正しくないからこの結論は、もちろん正しくない。世の中には悪い人がたくさんいて、論理的にはただしいことをいっているように見せかけることでそもそも前提が間違っているから当然結論も正しいはずがないようなことを、正しいと思わせたりする。

 

ところで、少なくとも私は「ある種の漫画やゲームが犯罪の温床である」とは思わない。(そう思っている人がそれなりにいるらしく、また彼らがあまり論理的には見えないのは不思議なことだ)

 

向いてない人

人には向き、不向きがある。という言説は、かなり無批判に受け入れられている。ここには向いている職業や、学問、スポーツなどが人それぞれあり、出来るだけ向いているものに取り組み、向いていないものはできなくても仕方がないという含意がある。一方で、夢にむかって取り組むことの大切さもよく語られる。もし自分の夢が、明らかに自分に向いていないものだったら、どちらが優先されるべきかという問題にはわかりやすい答えは存在していない。

 

高校生のころ、クラスで一人ひとつ何かの委員みたいなものをやらなければいけなくなかった。なんでも良いと思っていたので特に立候補などもせずにいたら、高校三年のときは卒業アルバム委員になった。この仕事は大変重大である。卒業アルバムの各クラスに割り当てられた一ページの写真をセレクトするのがその主な仕事だ、と教えられた。クラスの写真は文化祭や、修学旅行、その他学校行事などの際にどこにいたのかよくわからないがカメラマンによって撮影されており、それなりの量がある。

卒業近くなって、春先にアルバム委員になったことも忘れていた私(ともう一人同じような理由でアルバム委員になった同級生)は突然招集されて家庭科室みたいなところで写真を並べて、クラスのページにはる写真を選び始めた。写真は100枚くらいあって、そのなかから10枚選ぶ。クラスは40人くらいだから一枚平均4人くらい写っているものを選べば全員がのることになると瞬時に計算した。約一年間委員活動をせずに、計算力を鍛えた成果が発揮される。

ところが、そんなに分散して写っているわけでもないので、案外ちょうどいいバランスがとれない。だんだんとどうでも良くなってきたのだが、決めなければいけないので僕と友人はある方針をとることにした。それは「自分たちが写っている写真を選ばない」ということである。これはそれなりに有効な方針で、これによってかなり写真が絞りこまれた。あとは、先ほどの方法で選べば良い。

 

大体時間にして20分程度。これが唯一の仕事である。他の委員は一年通して仕事があるのに、たったこれだけの仕事でアルバムの最後にはアルバム委員としてクレジットされてしまった。

 

だがよく考えてみると、写真を選ぶときにクラスの一年間の思い出や人間関係、その他多くの要因を考慮して、それをたった20分のパフォーマンスですべて表現するというのはそれほど簡単なことではないかもしれない。

そのような重責からついに解放された思いだったので、実はもうひとつアルバム委員に課せられるはずだった仕事「卒業後の同窓会の幹事」は、上京するため地元での同窓会幹事には向いてない、ということを理由に断った。大体こんな副次的な仕事があるとはしらなかった。ちなみに同窓会は毎回東京在住の友人が開催してくれた。

 

議員に向いてない人、というのはおそらく多くの人に共通している認識だろう。何か不祥事がおきるたびに「あのような人は議員に向いていない」というようにみんなが言い出す。

では向いているのはどのような人だろう。

清廉潔白、質実剛健、頭脳明晰、しかしそのような人はずっと前から別のもっと向いている夢に向かってしまうだろう。

あたまをつかう

「あたまをつかって考えろ」とよく言われるものだが、この言葉が含んでいる意味はそれなりに広い。

まず、考えるという行為は、基本的にあたまをつかう必要があるという前提をほとんどの人が持っているということが念頭に置かれている。(念頭に置かれるという言葉も頭で考えているという前提が念頭に置かれている)。たしかに足や手や爪で考えているとはどうしても思えない。少し難儀な問題に直面した時にはあたまをフル回転させてその問題に対処しているように思えるのは、それほど不自然なことではない。

とはいってもここでいうあたまというのは髪の毛や頭皮のことではなく、私たちの脳のことである。「あたまをつかって考えろ」とは「脳を使って考えろ」と言い換えることができる。しかし誰もが思うように、そして前述したように、脳を使わないで考えるということは現代の常識としてはありえない。ここで主張されているのは、例えば

「1から100までの全ての数をたしなさい」

という問題が出された時に、1か順番に2を足して、3を足して…というようなことをするのが「あたまをつかっていない」ということであり、なんらかの工夫をして簡単にあるいははやく問題をとく方法を考えるということ「あたまをつかう」と表現しているはずだ。

この場合はそもそも出題者の意図として「あたまをつかった方法」と「あたまをつかわない方法」が存在している。そのような場合にあたまをつかった方法をとるのはそれほど難しくない(最悪出題者にきくというのがあたまをつかった解答である)。むしろ現実的な様々な問題にたいして、この二択が本当にあるのか、あるいはそれは検討の余地があることなのかということを判断できる必要がある、とすら思う。

 

ワールドカップの最中だ。サッカーでは技術もそうだが、あたまを使ったプレーが必要となるらしい。冗談でもなんでもないが、サッカーであたまを使うといえばヘディングというプレーがある。あれはどう考えても脳にいい影響があるようには思えないので、本当にあたまをつかったプレーが必要ならサッカーではヘディングを禁止にしたらどうかと思う。

他者とは何かーふぇのたす「スピーカーボーイ」セルフレビュー

我々の社会性一般は普通「私」と「世界」の関係性として議論される。

私たち個人個人は、社会の中でそれを一つの超越であるととらえると共にまた自分もその一部であると考えることで、社会を一個の集合体であるとともに一応はそれをたんなる外部性としてではないものとして扱うことが可能なのである。

 

翻って、私たちの恋愛一般を考えてみるとそれは「私」と「他者」の関係である。他者は本質的には普遍的一般性からの超越であり、私たちは恋愛の対象を自分ではない他であると考える。しかし、実際には他者とは単なる他、つまり自分と異なるものではない。

 

私たちが他者をまさに他者であるとしてとらえるためには、それを「他我」であるという前提が必要だ。私たちの恋愛そのものを可能にしているのは、私たちがまた一般的な主観性としてとらえていっる自己とその同一性を、他的な存在者もまたもっていると捉えているという事実である。つまり他者が本質的に自分自身と同レベルの存在者であると考えるからこそ、それが我々にとって可能になるのである。フッサールがいうように、「他者体験は間接的に与えられる」ものであるとしてそれを前提としても、やはりおなじことで我々にとって間接的に与えられたものをまさに自分と同じような存在者が体験する、ということを体験することでそのようなあり方に納得することができる。もちろん、この場合にいっていることは他者が自己の中に存在するということではない。むしろレヴィナスがいう「他者の絶対的他者性」は保たれる。そのギャップを確かめる作業こそが、恋愛であるように思えるからだ。

 

ところでそのように考えてみると、なぜ世界もそのような「絶対的他者性」として捉えることができないのかというように思えてしまう。それはやはり、社会が「自己」を含むような形での外部であるからだろう。であるから、世界の構築に関して我々は恣意的な要素から自由でいられない。独我的であるということは、むしろ社会的な文脈ではその社会を自分の側に引き寄せることになっているといえよう。しかし現実に我々が考えるべき社会は十分すぎるほどの絶対的他者からなっている。それらの総体としての世界は結果論として尊重されるべきだとしても、今念頭におかれるべきではなく、そしてそれができないであろうことは、まさに我々の体験が絶対的に主観的であることからもいえる。であるならば、私たちは他者への恋愛と同じように、その超越への恋愛も可能となるはずだ。

 

だからこそ私は「独我的であるが故に、他者のためである言葉」に耳を傾けようと思うのだろう。

ぴったり12

年末になるといつも、今年できたことややりたかったことを振り返る、といったイベントが強制的に設定されることが多い。

一年の総括を行ったり、総決算を出したり、仲間内でも仕事でもそのようなイベントを行い、今年一年の反省をしたり、来年の目標を決めたりと言った次第である。

 

「一年」という枠組みは、人間の歴史の中でも原初的な概念であるように思える。普通一年は地球が太陽の周りを一周する期間ということで設定されている。これは星の動きなどを観察することで古来より、決められてきた。

これを12の月でわったのは人間の英知であるといえよう。12ヶ月というのは非常に切りが良くて、便利だ。

 

そして、それを思うたびになぜ人間は10進法を採用したのだろうか、という疑問が現れてくる。

10という数字は、10進法になれた日常世界では「ぴったり」な数字だと思われるが、実際にはそれほどキリのいい数字ではない。決定的なのは10は1、2と5しか約数がないということである。これは「ぴったり」の数としては些か不便であるといえる。一方で12は約数が1、2、3、4、6、もあってなかなか融通がきく。

 

世の中は、必ずしも便利な方向には決まらないようだ。