毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

時をかけるには


先日、今更ながら初めて『時をかける少女』のアニメ版映画をみた。

以前の記事で行った分類で言えば、ここでの時間移動は精神だけが移動するタイプのものである(ネタバレなので詳しくは書かないが、未来人の移動手段についてはこれでは説明がつかないことになるという矛盾もある。また肉体もある時間点から消失するという描写もあるため一概にはそのように言えないのかもしれない)


時間移動の方法論そのものはこの物語の本質では全くないのだが、中に主人公のおば(オリジナルの主人公)の発言として

「時間は不可逆だから、過去に戻ったのはあなた自身だ」

という発言がある。これが、本作の時間旅行を表現しているとすれば、そのさらに前提にあるのは、不可逆でかつ単一ではない時間構造ということになる。


しかし一方で、別種の疑問も浮かぶ。

「時間が不可逆」とはどういうことだろうか。我々の時間経験そのものが不可逆というのは理解できる。つまり明日は必ず今日のあとにやってくるわけで、その逆ということは起こりえない。しかしこれは我々の経験から、過去未来を定義することによって規定されるもので、このことによる説明は循環する。「時間が不可逆」というときに表されている「時間」とはなんなのだろう。


物理上の概念としては、時間は空間と同じようにミンコフスキー空間の4つ目の軸として扱われる。が、しかし我々は空間について可逆であるというような主張はしない。そもそも「可逆である」とはある過程に対して用いられるもので、我々が「時間は不可逆である」とするには時間がある過程であるということを前提にしなければならない。

ところが時間がある過程である、もしくは系列であると前提することは実際にはそれほど単純なことではない。


結局作中では、パラレルワールド的解釈によって問題は解決されるが、時間概念の奇妙さに踏み込むタイプのSFもみてみたいなと感じた。

欠点をなくすには

欠点といえるものが何もない、という人はほとんどいない。どんな人でも例えば、人よりも背が低いだとか髪の毛の所有量が著しく少ないだとかといったことを常日頃から意識している。自分には欠点がないと言う人もいるかもしれないが、そのような人は謙虚さがないという欠点がある。


しかし何を欠点と考えるかは人それぞれだ。身長が175cmの男の人が、自分の欠点は身長が180cmないことだといっても、身長160cmの人からみたらそれは欠点には見えない。それどころか長所に見えるだろう。
このように大抵のことは視点によっては良い点とも悪い点ともいえる。
多くの人は自分の欠点をなんとかして改善したいと考えているが(謙虚でないという欠点を持つ人は謙虚でないため、例外的に欠点を改善して謙虚さを持とうとは考えない)、急激に実際には背を伸ばしたり髪を増やしたりということは簡単に実行できることではない。そこで、前述のような見方の違いを利用して、欠点を欠点と思わない方法をいくつか提示したい。

1.人と比べない
大抵のことは、それを自分よりも得手とする人がいるものである。しかしその人にしてもさらに上はいるもので、一番上でも過去や未来の自分が上にいたり、その後別の上位者が現れるかもしれない。これは永久に終わらない争いであり無意味なので、人と自分を比較するべきではない。

2.人と比べる
大概のことは自分よりもそれを苦手に思っている人、悪いと思っている人がいる。そういった人もいると思えばどんなことも気が楽になる。髪が薄い人は今の自分よりも一本以上髪が少ない明日の自分を想像しよう。今の自分が随分とましに見えてくるはずだ。

3.定量化する
欠点を数値化することで、それを正確にとらえてむしろ欠点として捉えなくすることができる。「髪が薄い」、ではなく「頭髪が16354本ある」と考えるとかなり髪があるように思えてくるなど効果はかなり期待できる。

4.定量化しない
身長など、細分化すればいくらでも細かくできるもので良し悪しを決めるのは馬鹿げている。身長がそこそこある、などいう言説をもちいると良い。

5.人のせいにしない
自分の欠点を、人のせいにして片付けてしまうのは非常に愚かである。そもそも、1でも述べたように比べなければいいのだから他人が自分の欠点の原因にはなり得ず、欠点を考える必要すらなくなる。

6.人のせいにする
自分は一人に対して、残りの人は70億人近くもいるんだから割合からいって悪いことの原因のほとんどは他人にあるはずだ。

時間移動に関する一つの問題

ここ数日、時間旅行に関する小説をたまたま連続して読む機会があったが、そのようなストーリーには大きくわけて二種類がある。

1:タイムマシンのようなものを使用して、精神と肉体のどちらもが過去または未来に移動する(例えば映画『バックトゥーザフューチャー』など)

2:意識だけが過去または未来に時間移動するもの(ドラマ『プロポーズ大作戦』など)

(一方で例えば『名探偵コナン』などは肉体だけが逆行する作品と言えるが、通常これをタイムトラベルとは言わない)

 

 

ここで、前提にされているのは精神と肉体の二元論的な世界観であるように思われる。「精神のみ」が移動するか、「精神と肉体」が移動するかという二つの可能性が許されているわけだが、このような二元論は実際には本質的なものなのだろうか。二元論というのであれば、論理的には「精神」と「それ以外の世界全体」ということも同じように可能である。

この場合、2のタイプの時間旅行はそのままの形で捉えることができるが、1のような時間旅行は本質的にありえないということになる。もしあり得るとすれば、精神も「世界全体」も時間的に逆行するはずだ。しかしもしこのようなことが起こったとしても、それをとらえる精神にとってはまさに何もおこっていないのと同じである。自分と一緒に世界そのものも逆行したとすれば、それは地球の自転と一緒に我々が移動しているのと同じように我々は常に「同じ場所」にいると自覚するだけだろう。

 

だからなのかはわからないにせよ、2のタイプのストーリーのほうが不思議と可能な世界のように見えてくる。

 

 

 

運と確率


結構大事なことを決めるのに、そんな条件で決めてしまっていいのかと思うことは多い。(結婚などもそのひとつだが、その議論は多くの危険を伴うので今回は割愛する。)

例えば、サッカーは試合の最後まで決着がつかないとPK戦で結果を決める。知らないひとのためにいっておくと、サッカーとは11人対11人でお互いのゴールにボールを入れ合う数を競うスポーツである。PK戦はゴールキーパーとボールを蹴る人間の1対1の対決だ。

先ほどまで所狭しと走り回って雌雄を決していた各チームが、急にとまったボールをゴールにいれるゲームで勝敗を決めることにするというのはなかなか変わった趣向だ。

きくところによれば、PKというのはほとんど運のようなものだという。プロのゴールキーパーと小学生が対決するならまだしも(小学生のプロはいないとして)、PK戦にまでなるようなレベルの近いもの同士のPKでどちらが勝つかはほとんど時の運であり、PKの失敗などで負けた場合もそれが各選手の責任になることはない(なんと公式の試合記録はPKまで行った場合は引き分けになるくらいだ、あくまで大会の形式上どちらが次の試合に進むのか決めるのが目的なため)。

だが、それならばなぜくじびきではいけないのか。
そこには漠然とPKにはサッカーの実力的な要素が皆無ではないという前提がある。
しかしそれならば、それまでの試合の文脈とはほとんど関係ないゲームで勝敗を決めるというは実に不可解だ。

さて、じゃんけん。日本では割と多くのことを(特に子供の集団の中では)じゃんけんの結果で決める。知らないひとのためにいっておくと、じゃんけんはグーチョキパーの強弱が三すくみになっているの手の形を同時に出すことで、勝敗を決める。この時前提はじゃんけんは確率的に公平なゲームということである。
しかしじゃんけんは最も理想的な状態で行われた場合はそうであるにしても(対戦者が手を同時に出す。など)、ほとんどそれは不可能で実際にはどちらかに有利に働くように出来ている。極端な話、動体視力と反応速度が平均よりもずっと高いひとがいれば彼はじゃんけんにおいて圧倒的な優位性をもつ。要は、相手の手を「みて」から決めればいいのだから。
またあいこ(相手と手がかぶること)の後の複数回の対戦は心理的には純粋な独立試行とは言えないものだ。ずっとパーを出し続ける相手に何を出すのか。
準備がいらないという圧倒的な利便性はあるにせよ、あきらかに力に優劣のあるゲームで小学生くらいは色々なことを決めているのを見て、よくそれで納得できるね、と誰か一人くらい言い出さないかと期待している。

嘘なんて当たり前

世の中には嘘が多い(これも嘘かもしれない)。
結婚すれば幸せになるという主張がある(電車の中などでよく見るが、人にそんな大事な情報を簡単に教えていいものか)が、これは幸いにも多くの人が実践によって嘘であることを実証しているように見える。しかしこれほど反例が多いのにまだ実験を繰り返す人が多いのは、殊勝なことだ。論理的には反例はひとつで十分なのにも関わらず。
その他、へそを出して寝ると雷様にへそをとられる(へそなんか集めてどうするのか、いちいちそんなことを確認しているのかなどの疑問もさることながら、そもそもへそがなくなったってほとんど問題はないような気がする)、日本人は勤勉だ(鏡をみよう)、絶対に儲かる話がある(それなら自分でやってはどうか?)などがある。

何年か前から、いや今も流行っているけれどマイナスイオンというのが出るドライヤなどの家電製品が多くある。もちろん化学的な意味でのイオンが空気中にあるわけがないことは、中学生でも知っていることで、これは嘘だと普通は思う。しかし意外に多くの人がそのマイナスイオンと化学的イオンを同一視してる(そもそもドライヤから出るのはイオンではない)
これは明らかな用語の誤用で、それもやや意図的にされているから嘘だ、といえる。この嘘がさほど問題にならないのは、結婚のように実害が出ないので反例を導けないから、ということかもしれない。(プラシーボというのもある)。

科学は常に正しいものであってそれの正誤を疑うのは実に馬鹿馬鹿しいが、誰が科学を語っているかを見る必要はある。そもそもマイナスイオンが出たからどうだというのだろうか。マイナスイオンなんて毎日飲んでる水の中にもたくさんある。

嘘がない世界はない。嘘はなくても人は間違うから、結論は同じだろう。結局のところ、問題は嘘かどうかよりも、自分が嘘かどうかを判断する境界線の上からものをみているかどうかということだ。