時をかけるには
先日、今更ながら初めて『時をかける少女』のアニメ版映画をみた。
以前の記事で行った分類で言えば、ここでの時間移動は精神だけが移動するタイプのものである(ネタバレなので詳しくは書かないが、未来人の移動手段についてはこれでは説明がつかないことになるという矛盾もある。また肉体もある時間点から消失するという描写もあるため一概にはそのように言えないのかもしれない)
時間移動の方法論そのものはこの物語の本質では全くないのだが、中に主人公のおば(オリジナルの主人公)の発言として
「時間は不可逆だから、過去に戻ったのはあなた自身だ」
という発言がある。これが、本作の時間旅行を表現しているとすれば、そのさらに前提にあるのは、不可逆でかつ単一ではない時間構造ということになる。
しかし一方で、別種の疑問も浮かぶ。
「時間が不可逆」とはどういうことだろうか。我々の時間経験そのものが不可逆というのは理解できる。つまり明日は必ず今日のあとにやってくるわけで、その逆ということは起こりえない。しかしこれは我々の経験から、過去未来を定義することによって規定されるもので、このことによる説明は循環する。「時間が不可逆」というときに表されている「時間」とはなんなのだろう。
物理上の概念としては、時間は空間と同じようにミンコフスキー空間の4つ目の軸として扱われる。が、しかし我々は空間について可逆であるというような主張はしない。そもそも「可逆である」とはある過程に対して用いられるもので、我々が「時間は不可逆である」とするには時間がある過程であるということを前提にしなければならない。
ところが時間がある過程である、もしくは系列であると前提することは実際にはそれほど単純なことではない。
結局作中では、パラレルワールド的解釈によって問題は解決されるが、時間概念の奇妙さに踏み込むタイプのSFもみてみたいなと感じた。
欠点をなくすには
欠点といえるものが何もない、という人はほとんどいない。どんな人でも例えば、人よりも背が低いだとか髪の毛の所有量が著しく少ないだとかといったことを常日頃から意識している。自分には欠点がないと言う人もいるかもしれないが、そのような人は謙虚さがないという欠点がある。
時間移動に関する一つの問題
ここ数日、時間旅行に関する小説をたまたま連続して読む機会があったが、そのようなストーリーには大きくわけて二種類がある。
1:タイムマシンのようなものを使用して、精神と肉体のどちらもが過去または未来に移動する(例えば映画『バックトゥーザフューチャー』など)
2:意識だけが過去または未来に時間移動するもの(ドラマ『プロポーズ大作戦』など)
(一方で例えば『名探偵コナン』などは肉体だけが逆行する作品と言えるが、通常これをタイムトラベルとは言わない)
ここで、前提にされているのは精神と肉体の二元論的な世界観であるように思われる。「精神のみ」が移動するか、「精神と肉体」が移動するかという二つの可能性が許されているわけだが、このような二元論は実際には本質的なものなのだろうか。二元論というのであれば、論理的には「精神」と「それ以外の世界全体」ということも同じように可能である。
この場合、2のタイプの時間旅行はそのままの形で捉えることができるが、1のような時間旅行は本質的にありえないということになる。もしあり得るとすれば、精神も「世界全体」も時間的に逆行するはずだ。しかしもしこのようなことが起こったとしても、それをとらえる精神にとってはまさに何もおこっていないのと同じである。自分と一緒に世界そのものも逆行したとすれば、それは地球の自転と一緒に我々が移動しているのと同じように我々は常に「同じ場所」にいると自覚するだけだろう。
だからなのかはわからないにせよ、2のタイプのストーリーのほうが不思議と可能な世界のように見えてくる。