なぜ浦島太郎は玉手箱をあけて歳をとらなければならなかったのか?
*1:注意深い方は気づくかもしれないが、「必然的に」正しいかどうかはまったくの別問題である
批判という言葉の誤用から、ちょっとだけ。
批判、という言葉の扱いが問題になっている。
今井絵理子さんが言うところの「批判なき選挙、政治」というのがまず問題発言ではないか、というところから話がはじまっているようだ。
「批判」というのは、本来の意味は「いろいろな物事を、色々と詳しくしらべたり、議論したりして、判断すること」なので、この意味で「批判なき政治」というと、「政治のその内容について何もしらべたり、議論しないまま、決めちゃいましょう」ということになってしまうので、これはまずい。民主的な政治であれば、とうぜん多くの人が色々な意見を持っているのだから、議論は絶対に必要だし、そもそもたとえば君主制の王様であっても自分の政治を省みて判断することはしているのだから(これを自己批判という)、どんな場合でも批判のない政治はありえない。
この人の言いたいことはおそらく
このブログで言われている通りだろう(言い方はかなりひどいけれど)
つまり、今井絵理子さんのいう「批判」という言葉の意味は「相手を言葉で攻撃すること」というようなイメージなのだろう。
実際この間違った「批判」という言葉の使われ方は蔓延していて、Yahoo!で「批判」を検索すると最初のページに出てくる多くは芸能ニュースなどで、誰々が誰々を「批判して」、炎上したとか、それを後に謝罪したとか、そんなものがほとんどだ。これはすべてこの意味においては「批判」という言葉を誤用している。
まあこれだけの人が誤用しているのなら、ある意味ではもはや問題なくて、そういうものだと受け止めて聴いておけばいいだけの話である。
しかしたとえば音楽など人の前にでることをやっていて、もう一つの実感として、本当に他者に「批判されること」(たとえば作品の出来について、否定的な意見をいわれることなど)を極端に嫌がる人がそれなりの人数いる。いい評価をうけなかったとして、それに対してあまりいい気持ちにならないのは当たり前のことだ(自分だってそりゃそうだ)。しかし相手がそのような意見を持つことを拒否することは本来はできないはずである。ちなみにこういう行為をふつう「批評」という。批評さえ嫌がる、批判されることそのものを良しとしない、という人たちがたしかにいて、そういったことがが当たり前になったことによって(つまり批判や批評すらしてはいけない世の中になることによって)、このような言葉の誤用がでてきたのだとすれば、少しいろいろと考え直してみる機会なのかもしれない。
アイドルバンドセット問題
アイドルがたとえばライブハウスで数組共演する時、普通はカラオケ音源を流して、歌うことになる(歌も流している人たちもいるけれど)。バンドなどでも「同期」といわれる音源をつかって、演奏している人間だけでは足りない楽器の音を流すことはあるけれど、基本的にすべてをカラオケにすることはほとんどないから、これもバンドとアイドルのライブハウスでの大きな違いになっている。(機材の問題がないから、アイドルのライブでは各出演者のステージとステージの間の転換時間がほとんどなく、良くも悪くもかなりスピーディな感じがする、など)。まあつまりアイドルにせよシンガーソングライターにせよバンドにせよ、ライブハウスでの演奏の仕方はおおきくわけてこのカラオケか生演奏(生バンド)バンドがあるわけである。
ところで、カラオケと生バンドどちらがライブが音楽的によくなる可能性があるかといえば、それは生バンドだろう。音楽的に、という表現が雑すぎることを承知でかいているのだけれど、ライブという文字どおりライブなので、日によっていろいろな状況がある。気温、湿度、演者の体調、お客さんの反応、いろいろあってそれに少なからず対応してパフォーマンスしようとすると、演奏はその都度少しずつかわることになる。カラオケ音源では、当然あるものを使うしかないので、その変化を演奏中に出すことは不可能だ。*1
とまあ、そんなことは大体みんなわかっていて、アイドルでも、ステージが大きくなったり、しっかりとそれに見合う予算がついてきたり、あるいは音楽的な志が高かったりすると、生バンドセットで演奏することになる。
ところが、これが必ずしもよくなるわけではない。まずアイドルのカラオケというのは、(少なくとも僕が関わっているものは)プロの演奏家が時間をかけてつくっているものなので、演奏に関してはかなり高度なことをやっていることが多い。それに対して、ライブというのは当然その場でのミスもあれば、組み合わせによる微妙なズレもある。実際にはそれ自体はさほど大きな問題ではない。正しさよりも上位互換なミスもあるし、ズレが気持ち良いバンドなんてほとんど全部のバンドだ(ぴったりあってるというのはそもそもよくわからない概念なので)。問題は当たり前だけれど、そこにどうしてもクオリティの差が出てくるということだ。
またライブハウスの音響面での問題、規模感などの問題もある。アイドルを観に来る人のほとんどは(たぶん)アイドル本人を観に来るだろうから、そうなるともっとも大事になるのは歌とダンスだ。これらを生かせない演奏であれば、それはかなり本末転倒なのだけれど、実際そういうことは頻繁におこってしまう。たとえば先日フィロソフィーのダンスがイベントではじめて「オール・ウィ・ニード・イズ・ラブストーリー」という曲を生バンドでやったのだけれど、正直かなり微妙だった。自分たちが作った曲なのでなおさらなのかもしれないけれど、このくらいの規模感ではバンドセットは難しいといわざるをえない出来だったので、なんでもやればいいってもんではないこともよくわかってしまった。(やらなきゃわからないというのはプロとして言い訳だな、とも痛感)。先日も別のグループで正直これはバンドセットでやらなくていいな、と思うシーンがあった。なんせカラオケのときはまったく気にならなかったが、普通にきいていて歌が聞こえなかったのだ。論外といってもいいかもしれない。
フィロソフィーのダンスは今、歌とダンスがものすごいレベルに達してきているので、正直それだけでもバンドファンにだって、自信をもってライブを見てもらえると思う。(ついでにいうと、最近はMCもかなり良い感じになってきた)
すべてを生演奏することにこだわらなくても、例えばNegiccoのホーンだけ入ったライブセットも素晴らしかったし、でんぱ組.incの代々木体育館以降のでんでんバンドの演奏は生バンドならではクオリティがあって最高だったり、とアイドルのバンドセットにもいろいろある。BABYMETALはもはや、神バンドの存在無くしてはありえないだろう。おやホロのアヒトイナザワドラムをまだ未見なのはかなり悔しい。
基本的にバンドセットのほうが、よくなることは間違い無いのだから、バンドセットでマイナスになる状況なら、普通にカラオケで良い歌唱とダンス。それでも最高のライブは作れると思います、アイドル運営のみなさま。
「脱退するバンドマン、卒業するアイドル」
最近、バンドマンやアイドルのグループからの脱退のニュースをよくみかける、という書き出しの記事をよくみかける。多くの人が書いているので、おそらく事実であることはあるのだろう。多くの人が書いているのにあまり事実ではないという特徴をもった媒体をあまり読まず、芸能ニュースばかりみているのが功を奏した形だ。
ところで、アイドルはグループから抜けるときにしばしば「卒業」という言葉を使う。(ちょっときどってしばしばと書いたものの、実際にどの程度の数なのかしらべるのが億劫だったということでもある)。この世界には誰がオリジネーターかということを異様なまでに気にする人がいて、自分も比較的そういう気質があるのだけれど、いったいこの言い方は誰が始めたのだろうか。僕が最初にきちんと意識したアイドルグループはモーニング娘。だったが、彼女たちはメンバーがぬけるときにたしかに卒業という用語を使っていた。自分の世代はモーニング娘。のメディア露出がピークだった頃に、小・中学生だったので、同世代にモーニング娘。のことを話すともはや「卒業メンバー」と言われる元メンバーをイメージする人も多い。
アイドルグループのメンバーだったことはないが、バンドをいくつかやっていたことがあって、バンドをやめたこともある。ところがバンドにおいては卒業という語はほとんど使われない。自分もつかったことがない。
この理由を少し考えてみるといくつかの理由があるように思える。
卒業という言葉で連想するのはやはり学校だろう。アイドルといえば中高生、大学生くらいの年齢のメンバーが多い。その意味において、卒業という言葉が身近に感じられる人たちに「卒業」という語が使われていることになる。(年度の途中で卒業というのはありえないから、転校とか退学のほうがあっているように思わなくもないが、転校では他のグループにいくような感じだし、退学はあまり印象がよくないのだろう)。しかしながらバンドマンにも色々な年齢の人がいて、学生も多いので、必ずしもこれはアイドルに限定された話ではない。
ところが加えて、学校というもの特徴もアイドルグループとよく似ている。それは、学校の生徒がたとえ総入れ替えしたとしても、その学校そのものはおなじ名前で残るということだ。アイドルグループも同じ構造をもっていて、例えば件のモーニング娘。は自分がはじめてみたときにいたメンバーはだれもいない(まあ微妙に名前もかわっているけれど)。バンドではあまりそういうことはないように思える。バンドメンバーが全員かわってもバンドが存続するということはほとんどなく、場合によっては一人変わっただけでも別のバンドになるということもあるだろう。
これは哲学の中では「同一性問題」といわれるような類の話だ。つまり、何をもって二つのものが「同じ」であるのか、ということである。アイドルグループに関しては、同一性は「構成要素が同じであること」ではない、ということになる。実際に哲学的な議論でもこのように「構成要素」が同じであることを「同一」であるという条件として使うことはあまり有効な手段とはいえない。例えば、人体を構成する分子は約10年ですべて入れ替わるらしいが、だからと言って10年前の自分と今の自分が別の人間であるというひとはいないだろう(そもそも、同じだと思っているからこういった議論が可能なのであるし)。
しかしアイドルグループの各メンバーがこのような人体を構成する分子のようなものかというと、もちろんそんな風には思えない。例えばその例でいうなら、脳とか心臓とか、そのくらいの大きな部位を占めているようにも思う。何が残っているいればその人間そのものであるといえるのか、というのはかなり繊細で難しい問題であるから、それと完全に対比させるのはかなり難しい。
学校、という例は非常にわかりやすいのだ。生徒がいなければ「学校」はなりたたない。しかし生徒だけでも学校はなりたたない。そして、ある特定の生徒がいるかいないか、ということはその学校そのものの「同一性」には関係ないからだ。
さて、卒業、というのは別れでもあるが、それよりも一層めでたいものでもある。当たり前だけれど、「卒業」のあとに続く言葉ナンバーワンは「おめでとう」だ。アイドルの卒業にもそんな意味があるだろうか。たとえばモーニング娘。のメンバー当時やめていく時、それは次へのステップのように思えた。みんながそれぞれに自分の進むべき道をみつけて、グループを離れていくという姿は卒業というものとかなり似ている。
ところで、日本では学校を卒業するというのは小学校や中学校ではそれほど難しいことではないけれど(よほど問題がなければ時間が過ぎれば卒業することになってしまう)。高校になると、義務教育ではないから必ずしも卒業できるわけではないし、海外にいくと卒業というのはもっと難しいらしい(よく日本の大学とアメリカの大学をくらべて、入るのが難しいのが日本、出るのが難しいのがアメリカと、いったりする)。アイドルグループでも、なんとなく辞めていく人もいるだろうけれど、色々と大変な過程をへて、悩んだりそれでも何かを達成してグループを出ていく人もいてファンもその過程もふくめて応援しているからこそ悲しいなかでも「卒業」という言葉でそれを祝うことができるのだろう。(だからその理由であれば卒業という言葉をバンドマンが使っても別に問題はない気がする)
何かマイナスのイメージを言い換えるだけではない示唆があるのだから、その卒業を祝えるような卒業をしてくれたらなと思います。適当に卒業とか、慣習で言ってるのも余計に、卒業できるほどなにかしたのかな、と気になってしまいます。
追記
一般に、結婚も「おめでとう」しか後に続かない言葉なのに、この世界ではまた難しくなりそうですね。
2016/11/20のフィロソフィーのダンス
フィロソフィーのダンスの1stワンマンライブが終了、そして23日には初の流通盤CDである1st album「ファンキー・バット・シック」が発売される。Twitterなどでは繰り返し書いている通り、フィロソフィーのダンスとは結成前のオーディションから関わり、今も全曲の歌詞を担当し、曲もかいたり、レコーディングエンジニアをやったりと、多岐にわたる内容で実際に制作側として動いている。まあしかし、制作の話(歌詞の内容がどうとか)というのは別に今ここで書くようなことではないし、それはきっともっと先の機会に(少なくともCDが出た後で)するチャンスもあるだろうから、今日は別の話をしたい。
はじめてのワンマンライブの2016/11/20に何を思ったか、ということ。
上記のとおり、オーディションから関わってきて、レコーディングのときやライブのときにメンバーと話すことも多い。4人のメンバーにとっては、作詞家であるというよりもおそらくミュージシャン(4人のことはそういっても問題ないと思う)の先輩という感じもあるのだろう。まあ実際にそうだし、だからよいアドバイスができるということは実際にはほとんどないように思うのだけれど、それでもまあなんとなくこうだったよということはできたり、楽しかったことを話すことくらいはできたりする。でも、悩みというのはどこまでいっても個人的なものだ。
本人たちがTwitterやブログでも書いているけれど、四人は常に自分のアイデンティティを模索している。グループ内でも、グループ外でも。自分がグループで何ができるのかということ、そもそもアイドルとして何が魅力なのかということ、それを考える、悩む、ということが常に念頭にあるであろうことを1年半、身近な人間として意識しないことはなかったように思う。もしかしたら、その中で何かためになることがいえたのかもしれないし、まあぜんぜん関係ないことをただ話したりしていたようにも思う。
ただ、いずれにしても、今悩みつつも4人が自分のやることを自分でしっかり決めているからこその2016/11/20、1stワンマンライブがあった。自分たちの大事にすることを自分たちで今決めることができている。
だからこそ、マリリちゃんが、最初のライブのリハでいったアドバイスをそのときからちゃんとライブで意識し続けていることとか(もう、むしろ無意識にできているんだろうけれど笑)、あんぬが自分できめたアイドルとしてのルールを楽屋裏で僕と話すときでさえちゃんと守ろうとしていることとか、おとはすに「話や文が面白いからはてなブログで書いた方が良いんじゃない?」といったらいまだにそれで続けていることとか、ハルちゃんが僕も信じている彼女の歌の魅力をまたさらに信じようとしていることか、どれも嬉しい。
そしてそれを、繰り返しになるけれどどれも彼女たちが自分たちの意思できめて、進んでいっているのがとても心強い。
そんな2016/11/20
音楽作品と著作権とほんの少し印税の哲学(試論)
1:動機と構成
1.1時間を通じて存在する対象の存在論、
1.2上記の存在論的な議論が、実際の音楽の理解と、
1.3 よって本稿ではまず音楽作品の存在論についてのいくつ
2:音楽の存在論
2.1音楽の存在論というと、非常に範囲の広いものとなるが、
2.2何人かの哲学者たちの議論を見ながら、
2.2.1 ロマン・インガルデンの志向説
ロマン・インガルデンによれば音楽作品は「志向的存在(
「つまり、
また音楽作品の存在の仕方についてのべたIngarden(
「音響や、
このような志向的な存在である音楽作品に対しては、
2.2.2 ジュリアン・ドッドのタイプ/トークン理論
より最近の議論として検討に値するのはジュリアン・ドッド(
「タイプ/トークン理論によると音楽作品はそのトークンがsou
これは、2.2.1で検討された立場に対して、
2.2.3 ネルソン・グッドマンの唯名論
グッドマン自身が存在論的唯名論を強く主張することから、
「
このような強い主張は我々が音楽作品に対して一般的に持っている
2.3 これらの中で、音楽の哲学、
また、タイプとしての音楽作品はドッドによれば、「抽象的」「
2.4 ここでむしろ、音楽作品とは音楽的対象のゆるやかな「
特定の音楽作品={演奏1,2…、レコード1,2…、楽譜1,
例えばこのような集合について、
3:実際の音楽作品
3.1上記のように、音楽作品の存在論について述べてきたが、
3.2むしろ考えてみたいのは現代の音楽、
音楽作品というものの存在が問題になる場を考えてみると、
4:まとめ
音楽作品を「集合」として考えることで、
そしてまた、ここでは扱うことができなかったが、
【文献】
Dodd, J., (2007), Works of
Goodman, N., (1968), Languages
Ingarden, R., (1966), Utwór
Lewis, D., (1986), On the
SFとして観る『君の名は。』(ネタバレあり)
『君の名は。』
ストーリーとして難しい話だった、という感想があるのを聞いて驚いたのだが、これだけ多くの人が見ているのだから、アニメでも映画でも定番であるタイムリープ、タイムパラドックスSFものを人生で初めてみたという人もいるのだろう。それはすごいことで、衝撃の映画体験だったかもしれない。
タイムリープというのは時間跳躍のことで、突然昨日自分や何年も前の自分、あるいは未来の自分に意識が飛ぶことで、体ごと移動するタイムトラベルとは一応こういった意味で区別されている。その手のものを映画ではじめてみた人にはなんのことやらだが、「君の名は。」はタイムリープで、「バックトゥザフューチャー」はタイムトラベルだ。(ざっくりしすぎているが「名探偵コナン」は、意識ではなく身体がタイムリープしている、とも言える)
わたしが江戸時代にタイムトラベルしたといえば、今の身体と精神のまま、突然江戸時代の世界に投げ込まれることであり、また普通の意味では自分のまま江戸時代にタイムリープすることはできない(江戸時代に自分はいないから)。「君の名は。」では別時間の別人の体に意思がうつるので、この世界観では江戸時代へのタイムリープも可能である。
そして、タイムリープもの、あるいはタイムトラベルものにはもはやそれを抜きには語れないのが「タイムパラドックス」という概念だ。もっとも有名なものが「親殺しのパラドックス」というもので、簡単にいえばタイムリープやタイムパラドックスで過去に戻り自分を産む前に自分の親を殺すことはできるか、というものである。単純に物理的に考えれば可能に思えるが、もし出来たとすると今そこにいる自分はいったい何から生まれたことになるのだろうか、という問題である。
パラドックスという言葉を厳密に定義するのは難しいが、このようにどのように考えても矛盾が出てしまうので、これをタイムパラドックスと呼んでおり、他にも様々なパターンが考えられる。
『君の名は。』でも、三葉とタキによる「世界の改変」(SFではよくこの用語が使われるが、つまり元々の歴史がタイムトラベルしてきた人物やもの、その行動によって変化し、別の歴史が生まれることである。改変される前、あるいはあとのそれぞれの歴史のことを「世界線」ということもある)によって、災害による人的被害がなかった世界に歴史が書き換えられる。すると、タキ(そしてその世界線の住人)がその災害による被害を認識することができなくなるため、そもそもその被害を防ぐことができなくなるのではないか、というごく初歩的なタイムパラドックスが発生する可能性がある。
もちろん、そんなことを気にせずに楽しめばいいのだが(非現実性はそもそもの前提なので)、「難しい」と感じる人が一定数いる理由はそういった部分の説明の足りなさとあやうさにある。
普通、ひとはある出来事や物語(いまのところこれらの語彙に特別な意味はない)を因果の系列として捉えている。簡単にいえば、過去が現在や未来の出来事の原因になる、ということを前提とした上でものごとを理解しているはずだ、ということだ。(因果というのは原因と結果の関係のこと)
タイムパラドックスに関しては、この因果の系列が転倒することがまさにそのパラドックスの由来である、と考えることができる。それは、結果よりも時間的には後に原因が存在するということである。
これは普通の意味での因果の理解とは異なるから、当然SFに慣れている人以外は本来は「おかしい」と思うことである。
まあ、ところが実際にはタイムトラベルの概念、そして因果の転倒は概念としてはそれほど想像不可能なことではない。「バックトゥザフューチャー」などを見たことがある人などタイムトラベルもののSFを知ってる人はもちろん、「君の名は。」で初めてそれに触れた人すら最後には一応ストーリーの因果関係を理解できるはずだ。
1.災害発生
↓
2.過去に戻る
↓
3.災害を食い止める
↓
4.災害はなかったことになる。
ところで、なぜこれがさほど不自然でないかといえば、それは3の時点で、1、2にいたタキは「過去」にタイムリープしているからで、実際には
3が原因となって→4という結果が起こるという因果は転倒していないからである。つまり我々のように映画をみている人という外側からみれば、因果は転倒している(ようにも見える)が物語内の世界においては何も問題はおこっていないととらえることができる。
それでもタキと一緒に糸守にいった二人などある種「神の視点」(視聴者の視点)にいられるべき存在に関しても、4において「記憶がなくなっている」ということで、因果の転倒への気づきがありえないということが考慮されている。
このような理解の前提には非常に強い二元論がある。
それは
「精神」と「身体」は少なくとも因果に関して、異なる存在論をもっているということである。(言葉が難しくなりがちだか、「存在論」を「理論」とよんでもいいし、「理屈」と考えてもほとんど問題ない。また二元論というのは今でいえば「精神」と「身体」にはそれぞれ別の理屈がはたらいていて、どちらかでもう一方を説明することは難しいというような意味で考えてもらえればよい)。
どういうことかといえば、上記の
3→4において、因果の転倒がおきていないといえるのは「身体の世界」だけの話だということである。実際にはタキの精神は未来の時点のものだ。(2016年の記憶があるから。しかしその精神が2013年の三葉の身体に入ることで、一件転倒しているかに思える因果は、あくまで身体と物理的世界の話だけを記述すれば
「2013年の三葉の身体による作用で、2013年の被害が回避された」ということになり、この文には論理的にも物理的にもなんの問題もない。そして映画をみてる我々も当然そのように最終的には理解することになる。
しかし、前述したようにこれは見かけ上の「解決」にすぎない。それは結局「精神」に関する因果の転倒を何も説明できないからだ。ここでとれる選択肢のひとつは上記の強い二元論を採用し、「精神」に関しては因果系列を認める必要はないと考えることである。
例えば、一族で代々力をもっている場合、特別なお酒を飲んだ場合などは精神が因果の系列を転倒させることができるといった具合である。
実はこのときに前提となっているのは、我々ができごとやその他もろもろを含めたこの「世界」を物理的な世界(身体的な世界)と捉えているということである。そしてこの身体的な世界は当然、因果の系列を正しく満たすし、その他我々のイメージしている常識と矛盾なく存在する。そして人の身体もその世界の一部として存在する。しかし「精神」はそれとはまったく別のものであり、別の存在論を満たすというふうに捉えることになる。
タイムリープ系のSFはどうしてもこの点についてはこの立場に近いものを取らざるをえない。
では、
タイムトラベルものの代表である「バックトゥザフューチャー」に関して、同様に時間軸と因果系列を考えてみよう。下地にするのはpart1,2である。(結構なネタバレになるが、実際ネタバレを読んだ後みても面白いのがこの映画のもっともすごいところのひとつ)
ざっくりまとめよう。
あらすじ
1985年現在、さえない両親や兄弟をもつ主人公マーティは、そして発明家で友人のドク。ある日、マーティはドクから「タイムマシン(デロリアン)が完成した」と告げられる。しかしドクはドクがタイムマシン開発のためにテロリストから材料をだましとったことの復讐のためテロリストに銃撃されてしまい、マーティもテロリストから逃げるためドクの作ったデロリアンにのって(ここを85-Aとする)、自分が生まれる前、そして両親が結ばれる前の30年前1955年にタイムトラベルする。しかしここで(55-Aとする)、マーティは両親の出会いを偶然邪魔してしまい、このままでは両親は結婚せず自分は生まれることもなくなってしまう。そしてタイムマシンは燃料がきれ、その燃料は1955年では手に入れることができないため1985年にももどれない。なんとか両親を結びつけることに成功したマーティは85-Aでもらったチラシをみて、55-Aで大きな落雷があったことを知り、55-Aのドクと協力してそのエネルギーを利用して1985年にかえることができた(85-B)。85-Bのドクは55-Aでマーティからもらった手紙のおかげでテロリストからの銃撃にそなえて防弾チョッキを準備できていたため助かっていた。また55-Aでのマーティの活躍によって85-Aでは冴えない感じだった両親や兄弟は85-Bではすっかり雰囲気がかわっており、家も裕福になっていた。
めでたしめでたし(ここまでがpart1)
さらに85-Bからマーティとドクはマーティの未来の家族におこる不幸をなんとかするため、2015年に向かう。ここで、その問題自体は解決するが、デロリアンを一時的に悪役のビフに奪われ、ビフはデロリアンにのり、1955年にもどりそこで1955年のビフ本人に1955年以降のギャンブルなどの結果がのった本を渡し、2015年に戻ってくる。デロリアンはマーティたちの元にもどったが、そのデロリアンにのって1985年にもどるとそこはすっかり変わり果てたビフが支配する世界になっており(85-C)、マーティの父は死亡していた。もう一度2015年に戻ったとしてもそこは85-Cの世界から続く未来にすぎないため、原因が1955年にあることをしったマーティとドクは1955にまた戻ることになる。この1955年(55-B)で、マーティとドクは未来のために本を取り返すことに奮闘する。(part2途中まで)
といった感じである。
とはいっても見たことがなければこれだけで実際に話を追うのは難しい。ただこれ以上にわかりやすい例もあまりないのでこれをつかって考えてみよう。ここでいえるのは、
55-Aでのマーティの行動は1985年に影響を与えるが、その際に世界の改変がおこり、身体と精神のどちらもが時間移動しているマーティが帰ることができる1985年は85-Bのみになっているということである。
また2015年での活動により、1955年に影響がでるため、85年がさらに改変され85-Cとなる。この改変を是正するには1955年に再度戻り、この55-B
において55年のビフから本を奪わなければならない。
実はここでも「君の名は。」と同じ存在論はいきている。それはつまり、「物理的な因果は転倒してない」ということである。身体的な、あるいは物理的世界の出来事としては(例えば誰かが成長するとか金持ちになるとか、といったこと)
55-A→85-B
55-B→85-C
という世界改変は因果の系列に反していない。(時系列順である)そして55Bで本をとりかえすことができたならば、新たに85-Dがうまれるはずだ。身体とともに精神も移動するためもし、我々がマーティと同じ視点をもつとすれば我々は時間移動をしたというよりも、別の世界線に移動している、といったほうがよいかもしれない。
ところで、公開から何万回もいわれているであろうことだが、上記の中だけでも一箇所あきらかなタイムパラドックが存在する。
それは2015から1955にいき世界を改変したはずのビフがなぜおなじ2015年に戻ってこられたのかということである。「君の名は。」においても、改変後はタキは実質的に別の世界にいることなる(災害を回避した世界)。つまり改変が行われた以上、2015年のマーティのもとにはデロリアンは帰ってこないはずなのだ。このパラドックスはおそらくこの枠組みでは解決不可能だ、というかこれは実はパラドックスではない(たんに論理的に間違っている。)しかしこのようなパラドキシカルな問題がでてくる理由はやはり前述の因果に関する二元論的問題によるだろう。劇中、すくなくとも映画をみている人間はマーティの視点(精神)から物語をとらえることになる。するとその視点に関して言えば、ビフが車に乗って帰って来る、というただ事実がそこにあるだけである(というかそう描写されている)。よって、結局は視点をどこにおくかということ、あるいは精神と身体の二元論としていえば、我々は物語の理解を身体的に、しかしただ物語をみることを精神的に行っていることになる。タイムトラベル、タイムリープに関しての多くの違和感はそこに由来しているように思われる。
実は「君の名は。」のラストで、タキが三葉に気づくのはまあ組紐が理由でいいとして、その逆に三葉がタキに気づくのはなんとなく釈然とせず、単に男の願望の表れにしか思えない、という感想をもった。
しかし、実はこれは因果の系列に関して、自分自身がこの物語をタキの視点から見ている場合にのみ現れてくる問題なのかもしれない。(実際にストーリーテリングはそのように誘導しているので仕方ないにしても)、もし視点が三葉あるいは、2013年の世界線にあったとすれば、ラストでの気づきには純粋に因果的な、あるいは必然的な理由がありえるのかもしれない。なぜなら、すくなくとも三葉は何らかの理由によって、(それが「未来」のタキであるとわかる必然性はないにしても)災害を回避する行動をとったわけでまさにその因果を説明できるような原因を「君の名」に求めることができるからである。