毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

なぜ浦島太郎は玉手箱をあけて歳をとらなければならなかったのか?

  浦島太郎というおとぎ話は、日本人なら大抵の人が知っているし、その話自体もそうだが、他の多くの話でも引用されることから物語のひとつの典型として認知されているように思う。一文で言えば、助けた亀に連れられて竜宮城にいった浦島太郎がしばらくそこで楽しく滞在して地上に戻ったら数百年が経っておりさらに玉手箱をあけたら年寄りの姿になってしまった、という話である。一文にまとめようと思って、まとめたわけでもなく実際にこれ以上ディテールを語るのは難しいようにも思う。
 そしておそらくかなり多くの人が思うこととして、なぜ浦島太郎は不幸にならなければならなかったのか、という問題がある。(数百年後の未来にきて、さらに老齢になってしまったことは不幸ではない、という人もいるだろうがそれはひとまず置いておこう)。
 浦島太郎は亀を助けるという「善いこと」をした。しかしその結果、最終的には「不幸」になってしまった。これはなにか釈然としないところがある。
 日本の古来からの文学作品、あるいはおとぎ話のようなものであっても、それらには仏教的な考えが前提にされており、その考えのなかでも現在でももっとも有名なもののひとつが「因果応報」というものである。これは「善いことをすればよいことが、悪いことをすれば悪いことが、その人にかえってくる」という考え方だ。浦島太郎の話がどうにも気持ち悪いのはこの「因果応報」にそっていない、つまり善いことをしたのに悪いことが起こっているということに由来するように思う。
 ところが、いくつかの文献によると、この浦島太郎と話はまさに「因果応報」を描いたものであるという。というのも、浦島太郎は亀に連れられていった竜宮城で短絡的な快楽におぼれた、つまり毎日仕事もせずだらけ楽で快適な生活を送ってしまった、それは「悪いこと」であるから、その結果として「老齢になる」という不幸がめぐってきた、というのである。そしてさらにおそらくこのような見方が前提しているのは亀を助けたという「善いこと」が、竜宮城での快適な生活という「良いこと」につながっている、という別の形での「因果応報」だろう。このように考えると、「因果応報」の形は崩れていないことになる。

 さて、では私たちがこの浦島太郎の話そのものに感じた微妙な感覚、釈然としない感覚はなんなのだろうか。これには二つの解釈があるように思う。

 一つ目の問題は、上記でみたように「亀を助ける」→「竜宮城で楽しむ」→「年をとる」という3段階でみれば、問題がない「因果応報」の関係を「亀を助ける」→「年をとる」という最初の原因と、最終的な結果だけで見てしまったことにあるように思う。原因と結果の問題に関して、このように途中のものをとばして考えてしまうことは非常に危険である。それらは「論理的」には原因と結果の関係になっている。つまりAがおこったのでBがおこる、またBがおこったのでCがおこる、よってはAがおこることによってCがおこる、というふうに考えるのは論理的には正しい。*1しかしながら、我々がそれを、つまりAからいきなりCにいくことを「自然」な話の流れであると思えるかどうかはわからない。例えば「今日は天気が悪そうだ」→「天気が悪くて気圧が低いと頭痛がおこるから頭痛薬を飲んだ方が良い」→「頭痛薬は胃に悪いから、胃薬も飲んだ方がいい」というのは正しいとしても「今日は天気が悪いから、胃薬をのんだほうがいい」と言われたら、なんのことかよくわからないだろう。
 しかしそれでもやはり全体で見れば因果が崩れているといえなくもないのでもう一つ考えてみよう
。一つ目ともリンクするのだが因果ではなく因果応報に関するもう一つの誤解である。上記で意図してかいていたのだが、「善いこと」と「良いこと」は必ずしも同じではない。つまり「善いこと」をしたことで、「良いこと」がおこるのはともかくとしても、「良いこと」から「良いこと」がおこるわけではないのである。誤解を覚悟でいえばこの話において「善い」というのは「他者に対して、よいことをすること」であり「良い」は「自分にとってよいこと」なのだ。だから、亀を助けるという「善いこと」をした浦島太郎には竜宮城での生活という「良いこと」が待っていた。しかしその生活は「良いこと」であって「善いこと」ではなかったから、その結果として何がおこってもおかしくないのである。因果応報は「良いこと」の結果に何があるか、ということに関してはとくに何も言っていない。
 つまり浦島太郎が玉手箱をもらったことに意味や理由などなくてもまったく問題ないのだ。




*1:注意深い方は気づくかもしれないが、「必然的に」正しいかどうかはまったくの別問題である