毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

本当に「私以外私じゃないの」か?vol.2

さて、前回あがった問題点は簡潔にいえば

 

「ある人が昨日と今日で同じ人であるといえる根拠はなんのだろうか」

 

ということである。ある日心が入れ替わってしまった王様と農民。そもそもこの書き方をしている時点で、心か体か、どちらかはあきらかに「元々」の本人である、ということを前提しているように思われる。ただ入れ替わったのであればそれでもいいかもしれない。前回の一つ目の寓話のように二人の心がそれぞれ入れ替わったのならば解釈は以下

 

①元々の心をもったほうが真に王様と農民である、といえる

②元々の体をもったほうが真に王様と農民である、といえる

③それ以外

 

と分類する事が出来るだろう。

 前回述べたように、多くの人は①が最もスタンダードな解釈であると考えるだろう。このような心の入れ替わりはSF作品でも時折見られる。その場合、よくある設定としては「元の体を取り戻すために行動する」ということである。これはつまり、心を引き継いでいるものがまさに本人であり、今その本人に本来帰属するべき体が別の個人に帰属してしまっている、というように考えていることになる。(ここで何の気無しにつかったがこの「個人」という用語はこの論稿内では特別に断らない限り、アイデンティティと同義、つまりある人がその人本人であるということそれ自体であるとする。)。帰属する、とはその基本的なコントロール化にあると考えてよい。

 一方②もそれなりに説得力を持っている。なぜならば、一つ目の寓話の結果が表しているように、他者からみれば、つまり当事者の二人以外の個人からすれば、体が連続しているほうがその本人であると考えるほうが自然だからだ。例えば、記憶喪失になった人がいたとして、その人が「別人」になったと考える人は少ないだろう。医師も「本来の」記憶を取り戻すように、と治療を行うのが普通だと言える。つまり、この場合はそこにある体がその個人を特定していることになる。

 

 さて、このように考えると①と②ではそもそも大きな違いがあることになる。①はそれぞれの当事者が何を個人であることの根拠としているかに重きをおいており、一方②はそれ以外の人がどう判断しているかということだ、ということである。それをひとまず①は主観的な根拠、②は客観的な根拠、によるものであると呼ぶ事にしよう。①を根拠とすることが、自然であると多くの人が考える要因は、そもそも自分がある個人であるということはまったく主観的なことであると考えているからだろう。

 

本稿の主題とも関係するが、「私が私である」ということは①の意味、つまり主観的には絶対的なことであるように思える。①が正しいと考える人はもちろん、②が正しいと考える人も多くは、

 

「私が」という主語は、「私である」という述語を含んでいる。つまり、「私が私である」とは、他にその根拠を求めることなくそれ自体として絶対的に正しい文である。

 

と、思っているだろう。(このような形で真であることがいえるものを哲学の世界では伝統的に「分析的真理」という)。

 とすると、逆に言えばこれはただ「当たり前」のことをいっているだけにすぎないともいえる。これは寓話1の結果をみればわかるだろう。農民の体をしたほうは「わたしは王様だ」と主張したとしても、それは主張している本人にとってはまさに「分析的真理」として正しいのである。つまり彼は彼自身としては

 

「私は私だ」

 

と主張しているにすぎない。そしてこれはそれが分析的である、つまり絶対的にただしいことがあるから、それ自体として「検証」することはできないことである。繰り返しになるが、彼の言っている事は絶対的に正しい。それは言い換えれば彼は自分を王様だと思っていて、かつその根拠を自分の心の中にもっている。それでいて「私は王様である」と主張しているのだから、それは「私は私である」と主張しているのと同じであり、これは「AAである」が必ず正しいのと同じだと思えば多くの人は納得出来るであろう(このようにA=Aのような文を哲学ではトートロジーという。厳密にいえば上記の「私は私である」はトートロジーではないが。また分析的であることとトートロジーは関係がありそうだが、そう簡単な話でもないことも一応書いておこう)

 

 さてこれで、寓話2でなぜ悩むことになったかが少し見えてくる。つまり、①を根拠にした場合、それは当事者にとっての絶対的な正しさを根拠にしているからであり、まったくおなじ主張がされた場合、それをその主張の正しさに関して議論することは不可能だということである。

 寓話2における、二人の

 

「私は王様である」

 

は、どちらも主観的には「私は私である」という主張であって、これは何度もいうように絶対的に正しい。よってこれらを区別することができないから問題が発生するのだ(と、考えれば別に寓話1であっても同じような問題はおこりえる)

 

次項は②について考える。

 

 

 

本当に「私以外私じゃないの」か?vol.1


自己同一性の問題は、思想史的にも重要な問いの一つである。  

例えば、以下のような寓話を考えよう。

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あるところに、王様と農民がいた、農民は王様のような裕福な生活を望んでいる、王様は農民のことはよく知らないが普段の生活に退屈している。

ある朝、農民が目を覚ますと周りの様子がおかしい。どうやら、記憶はそのままで王様の髭面の顔と肥満体になって、豪華な王宮にいるようだ。かたや、王様は粗末な小屋で目を覚ました。体もずいぶんやせ細って顔も変わっている、農民というものになってしまったらしい。それぞれの生活に不満を持っていた2人はこれ幸いとそのまま生活を続けた。

しかし、贅沢な暮らしができるようになった農民は良かったが、貧乏暮らしをすることになった王様はすぐに耐えられなくなった。王宮にいき、自分こそが王様である、と訴えた。その姿を見た農民は、訴えてきたのが元々の自分の体をもった人間であると気づいた。つまり心がすっかり入れ替わってしまったのだ。しかし、王宮での生活に慣れてしまった農民は、この訴えを無視した。まわりは誰もこの変化に気づかなかったので、この訴えは取り下げられ2人は心がいれかわったまま、1人は王様として、1人は農民として生活を続けた。農民として生活を続けた方は最後までこう主張した。

「王様の記憶と心をもったわたしが、王様なんだ」

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心がある時突然入れ替わるということの科学的考証は後にするとして(寓話での出来事は科学的にありえないことではないことは明記しておく)、この話を読んで多くの人が「これは納得いかない」と思うのは、

心がいれかわって、貧乏な生活をすることになったほうは実際には「王様」であり、王様になったほうが本来は「農民」である
 
と考えるからだろう。つまり、体ではなく心を受け継いだほうがまさにその本人である、というのが普通の考え方であるということである。実際筆者の記述自体もそのような前提のもとで書かれている。

その前提でいえば、当然王様と農民は体は入れ替わったもののの心が連続しているほうがそれぞれなはずなのだから、最後には元々の王様の心をもっているほうが「王様」として生きるべきだ、ということになる。

読んだ人の違和感としては、この物語はそうなっていないので、おかしい、ということだろう。


物語上は、元々農民の心をもっているほうが入れ替わりを認めなかったことと周りがその変化に気づかなかったことで「仕方なく」、そのようになった、としていたが、実際にはそれらが解決されれば問題はなくなるかといえばそんなことはない。

例えば、元々農民の心をもっていたほうは素直に自分は農民の心をもっています、と認めたとしよう。それでめでたく、2人は入れ替わって農民の姿で王様の心をもったほうが「王様」に、王様の姿で農民の心をもったほうが「農民」になって、ことが済むだろうか。(王様も農民も自分の生活に不満を持っていたから、周りを騙すために嘘をついている、とまわりは思うかもしれない)。
本人たちも周りも認めたとして、本当にそれは「正しく」それぞれのアイデンティティが保たれたといえるのだろうか。本人が認めれば大丈夫だと思う人は、以下の寓話を考えて欲しい。
 
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あるところに、王様と農民がいた、農民は王様のような裕福な生活を望んでいる、王様は農民のことはよく知らないが普段の生活に退屈している。

ある朝、王様は粗末な小屋で目を覚ました。体もずいぶんやせ細って顔も変わっている、農民というものになってしまったらしい。生活に不満を持っていた王様はこれ幸いとそのまま生活を続けた。

しかし、貧乏暮らしをすることになった王様はすぐに耐えられなくなった。王宮にいき、自分こそが王様である、と訴えた。その姿を見た王様は、哀れに思いこの訴えをみとめ、農民の姿をした王様と、王様の姿をした農民が生活を続けた。しかし農民になったほうはやはり途中でまた貧乏に耐えきれなくなったが、二度と王様に戻ることはできなかった。王様として生活を続けた方は最後までこう主張した。

「王様の記憶と心をもったわたしが、王様なんだ」

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さて、この寓話では最後に農民になった側の心的な描写がない。もしその内容が、前述のものと同じであれば、上記のようにある程度この話は納得できる。ところが、こう考えることもできる、  

「心が入れ替わったと、農民の姿になってしまった王様が目覚めた朝、王宮では王様がいつもどおり目覚めていた。」

と。

つまり、心は入れ替わったのではなく分離したのだ。昨日までの王様の記憶と心をもったものが2人いる。王宮で目が覚めた方も、小屋で目が覚めたほうもどちらも王様の記憶と心をもっている。
さてこの場合どちらが、本当に王様であるといえるのだろうか。 先ほどまでのように、心が連続していることが肝心であるとすれば、この2人はどちらも「王様」である。
しかし、これでは同じ人が2人いることになってしまう。私以外にも私がいることになってしまってよいのだろうか。

次項ではこの点について、どのような解釈が可能か検討する。

2015年のまとめ

 

2015

 

自他ともに認める色々あった年だと思います。基本的には事実だけのまとめです。

 

1

大阪でふぇのたすの新年会イベント。地方でのただの飲み会みたいなファンイベントにあんなにたくさんの方がきてくれてびっくりでした。

千原さんと「今夜がおわらない」のMVをとりました。本当にすばらしいMVになったと思います。僕はおどれなくてヤギになってしまいましたが。

 

2

LOFTで自分の誕生日イベント。満員で嬉しかったです。出演してくれた寺嶋由芙さん、岡崎体育さん、クマムシ、バンドじゃないもん!、吉澤嘉代子さんもありがとうございました。

ふぇのたすのリリースが近かったので取材とかたくさん受けました。後にアイドルグループ「フィロソフィーのダンス」となるメンバーのオーディションもやってました。僕は見てただけなので、あの時うけたメンバーはこの人は何なのだろうと思っていたと思います。

 

3

ふぇのたすとしてメジャーデビューアルバム『PS2015』をリリースしました。大阪や福岡にもライブに行きました。GUの春夏Tシャツの曲を担当する事になり、3日で曲を作りました。その撮影もしたり、ふぇのたすの予定がかなり忙しかったのですが、イヤホンズの曲も作ったりしてました。

 

4

PS2015』のリリースパーティを東京・大阪で開催。たくさんの方のご来場ありがとうございました。シングルの発売も発表しました。主にそれのレコーディングや制作をしてしましたが、SPINNSのイベントに呼んでもらったりと新しい経験も色々でした。加茂さんから新しいアイドルグループを作る予定で、コンセプトは加茂さんのやっていたアイドルイベント「アイドルフィロソフィー」からとって「哲学」になるので、協力してほしいと言われました。

 

5

ふぇのたすのメンバーであるミキヒコくんが亡くなりました。突然のことで、前身のphenomenonから5年間もっとも一緒にいる時間のながかった人がいなくなってしまいました。残念です。皆さんからはお悔やみの言葉、ご心配の言葉もたくさんかけていただき、恐縮でした。ふぇのたすの活動もすべてストップし、CDの発売なども中止しました。

 

6

引き続き、ふぇのたすの活動はすべてストップしました。それ以前にうけていた仕事などはしていました。イヤホンズのデビューシングル『耳の中へ』が発売になり、イヤホンズの三人が主演したアニメ『それが声優!』もはじまり、色々と嬉しかったです。フィロソフィーのダンスのメンバーも決定し、はじめてメンバーにちゃんと会いました。レコーディングも始めました。

 

7

ミキヒコくんのお別れ会を開催しました。遠くからもたくさん来てくれてありがとうございます。みこちゃんと二人でふぇのたすを再開しました。

 

8

話し合った結果、9月でふぇのたすを解散する事にしました。直後のライブで発表もしました。急な話ですいません。久しぶりにふぇのたすとして二人でライブをし、海の家でライブしたり、名古屋にいったりもしました。発売中止だったシングルも限定で出す事になりました。多くの人にとどいていれば良いのですが。僕もみこも先のことはまったく決めずにふぇのたすを解散したのですが、様々な方にその後のことをご配慮いただき、色々な声をかけていただきました。

時間があいたので関西を旅行しました。深夜バスは当分のりたくないですね。

詞を担当しているフィロソフィーのダンスもライブが始まりました。まだまだですが、来年もがんばります。

 

9

ふぇのたすの解散ライブをやりました。昼夜ともに本当にびっくりするくらいたくさんの方が来てくれました。最後までふぇのたすらしく終わったと思います。ふぇのたすとして言い残した事はないですが、ミュージシャンとしてやりのこしたことはある気がしたので、いろいろと悩みましたがまだプロとして音楽を続けることにしました。

 

10

ふぇのたす解散後に頼まれた色々な仕事に手をつけはじめました。来年デビューの新人、人気アイドルグループ、懐かしい仕事、色々とやりながら自分の来年のことを考えました。

みこちゃんがロンドンにいっていたので、頻繁に写真やらがおくられてきて羨ましさしかなかったです。

自分は月末に台湾にいって一日7食くらい食べました。

 

11

だんだんと仕事が忙しくなりましたが、来年にそなえて色々な準備を始めました。かなり良い新しい出会いがいくつかありました。まだ何にもなっていないのですが、これを来年形にしていきたいと思います。デモ音源の募集もして、こちらもいろいろと面白いものに出会いました。

スタジオをつくることになったので、色々と考え始めました。

来年リリースもののレコーディングも結構すすめました。

 

12

京都にいって新しい才能を発見しました。でもまだこれからです。

フィロソフィーのダンスもはじめてのCDが出ました。

新しいプロジェクトが色々と動き始めました。

 

2016年も楽しくいきたいと思います。

 

 

 

論理的とは何か2

 

 さて、前回論理的であるという観点で、普通使われる推論のふたつを紹介したが、その中でも普通我々が「論理的」そのものであると考えるのは「演繹的推論」のほうだろう。例えば三段論法というのは実に論理的であるし、これは疑う余地がないことのように思える。

 ところで、日常レベルで論理的な人、そうでない人というような区別はよくあるがそれが最も端的に表現される場は「理系」と「文系」という区分との対比関係の中にあるのではないだろうか。つまり、理系の人というのは文系の人よりも「論理的」に物事を考えたり、話をしたりするというような話はよく聞くところである。このように考える理由は大きく分けて3つあるように思う。

 一つは、「理屈っぽい」という言葉である。理系の人間は理屈っぽい、つまり何にでもその原因や因果関係を見いだそうとする。例えば、普通の人はなぜ車が動くのかわからなくてもその車を運転し動かす事ができれば十分だろう。しかし理系の中でもある一定の人は、それがわからなければ納得がいかないのだという。実際、地球が太陽の周りを廻っていても、太陽が地球の周りをまわっていても実生活の上ではほとんど影響はないだろう。しかしそれらを他の要因とくらべて、因果的に説明出来てこそ納得がいくというのが理系の人によくあるスタンスだ。実際には、このような傾向と「論理的」であることは必ずしも一致しないが、それらが近いものに感じられたことによってこのように思われることになったのだろう。

 二つ目はコンピュータである。コンピュータと理系分野はきっても切り離せないものであるし、理系であるということはコンピュータを扱えることだ、というレベルで浸透している。そしてコンピュータの動作は純粋に論理的である。コンピュータは何もしないのにソフト的に壊れる事はないし(これはよく論理的でない人がする主張である)、論理式を誤って推論することもない。このことが理系が論理的であるということの一つの理由になっているといえるだろう。

 そして最後は数学である。数学は純粋に論理的な学問である。というのも数学の定理などはすべて論理的に、つまり演繹的に導かれたものであるからだ。誰もが習うような小学校、中学校の算数、数学もどこで誰がどう習ってもその結論は変わる事はない。それはそれらが演繹的に証明されたものだからである。しかし実は、そのことがまさに示しているように数学以外の理系分野というのは実はまったく論理的なわけではない。

 次回に続く。

 

「論理的とは何か1」

「論理的に正しい」という言葉がある。この言葉については、これまでに色々なところで書いているが語り尽くせないほどに多様な意味を持っている(論理的に正しければ意味は一つのような気がするのが不思議である)。今回は論点は「演繹と帰納」である。

 推論、つまりある事柄を示そうとしたときに普通、人が選択する方法は「演繹的推論」か「帰納的推論」のどちらかであろう。そうでない、という人はその内容を説明してみてほしい。だいたいどちらかの方法で説明することになる。このふたつをわかりやすく言えば

「演繹的」というのは、一つのルール、決まったこと(つまり少なくともその世界では絶対に正しい事柄)から、別の新たな内容のことを導くことである。例えば、「ソクラテスは人間である」という文と、「人間は必ず死ぬ」という文がどちらも正しい事柄であるとすれば、そこから「ソクラテスは必ず死ぬ」という新たに(本当に「新たに」なのかはよく考えてみよう)正しい事柄が導かれる(これはそのような方法論のひとつで「三段論法」という名前がついている)。

 

一方「帰納的」というのは、いくつかの事実から、一般的な一つのルールを導くことである。似たような例で言えば「ソクラテスは必ず死ぬ」、「プラトンは必ず死ぬ」、「アリストテレスは必ず死ぬ」etcなどを集めていって、「人は必ず死ぬ」という一つの一般的なルールを導くといったような感じである。

 

ところで、こう書くとある程度普通の感性をもった人なら本当に論理的に正しいのは「演繹的推論」の方だけなのではないかというように思うのではないだろうか。上記の三段論法は、見た感じこれらを否定することはできなそうである。(前提の「人は必ず死ぬ」は正しくない場合もある、と思うかもしれないが、あくまでもこれは前提であり、これが必ず成り立つということをスタートにしていることに注意)。しかし一方「帰納的推論」はいくらソクラテスプラトンアリストテレスと、他にどれだけたくさんの人間をあつめてそれらがいつかは死ぬということをいったところで、もしかしたら世界のどこかには不老不死の人がいるかもしれないという可能性をぬぐえないのだから、「人は必ず死ぬ」という結論は必ずしもでてこないのではないか、と考えるのはそれほど変なことではないだろう。

 しかし、たしかにこのどちらもを我々は普通に使っている。というよりも大概の場合、「帰納的推論」のほうを使っているといってもよい。私たちが事実正しいと思っていることのほとんどは「帰納的推論」による。(例えば明日も地球は太陽のまわりをまわる、とか)。そう思わないという人は、日常生活の中で演繹的に正しい事実の例を考えてみるとよいだろう。

 とりあえずここまでのところ、所謂論理には大きく分けて二つの種類があるということを確認して、今後の話を読んでください。(続く)

 

 

どうでもいいこといいますけど


 どうでもいいことですが、という書き出しではじまる会話や文を見ることは少なくない。例えばTwitterなんかではよく見かける書き出しだ。どうでもいいなら、どうでもいいらしく黙っていれば良さそうなものだが、そのように言ったところで別にどうでもいいのだから、むしろもう少しこれを掘り下げてみよう。
 
例えば、「どうでもいいことなんだけど、昨日の日本代表の試合はつまらなかった」という発言があったとする。もちろん、文の意味するところ、つまり発話者の主張は「どうでもいいことなんだけど」があってもなくても同じである。それでもこの「どうでもいいことなんだけど」をつける理由は大きくわけて二つあるように思う。

①保険として
②接続詞として

 ①はつまり、他の人がその主張をどう思うかということを担保しているということだ。多くの人は昨日の試合はそんなに悪くなかったと思っているかもしれない、あるいはこのような発言をすること自体がイケてないことかもしれない、というような可能性に対して、この発言そのものはそれほど自分の中でプライオリティが高くないぞ、ということを示しているということだ。
 一方②は、要するに他に適切な接続詞がない、あるいは文頭にはなにか接続詞的なものがなければいけないと思っている、というようなことである。この文の前に例えば、「今日は暑すぎるので仕事が終わったビールが飲みたい」という文があったとしよう。そのことと「昨日の日本代表の試合」はおそらく関係がない。そこで、他にいいものが思いつかないので「どうでもいいんだけど」という接続詞的なものをいれることになる。これに該当する適切な接続詞は「ところで」あるいは「さて」であろうと思われるが、確かに現在の日本語使用においては少しだけ「固い」表現であるようには感じられる。
 実際、「どうでもいいけど」をTwitterエゴサーチすると、①②両方の意味合いを込めて使っている例が多いように感じた。もちろんそのように思って読んでいるからそう感じるということもあるだろうが、いずれにしてもいえることは発話者はそれほど「どうでもいい」とは思っていないはずだということである。「どうでもいいですけど」ではじまる文は、
「(今から言うことはわたしはそれなりに発話に値すると思っていますが、これを読む不特定多数の方にとってそれがあまり重要ではない可能性、あるいはこれらを真剣に検討することに不快感を示す方がいる可能性などを十分鑑み、熟考のうえ、さまざまな状況を考慮した上で、関係各位のご意見もふまえまして、最大限善処したうえであらゆる可能性を前提として)どうでもいいことなんですが・・・」
と読むと適切であるようだ。特にTwitterは140字しかないので、そこを鑑み、善処した結果だろうと思う。

僕何歳

 日本語の用法には色々な不思議がある。そもそも絶対的なスタンダード言語はあってもなくてもよいのだから別に他の言語と比べて変なところがあっても良いのだけれど、その言語の内部での「何でこんな言い方があるのか」わからない言葉遣いだけでも枚挙にいとまがない。

 

 さてその中でも子供の頃から頻出度トップクラスの謎な用法が

「僕何歳?」

というタイプの疑問文だ。これは大人が小さな子供(男の子)に年齢を訪ねている。英語でいえばHow old are you?で中学校一年生でも理解できる意味内容だ。

 ところがこの文をごく普通によめば、「わたしは何歳なのでしょうか?」という自分に関する疑問だと読める。(やや面倒な話になるので、その理由はこのカッコ内で。読み飛ばしても可。簡潔に文の真偽をその文の意味とするならば、人称代名詞、特に一人称の変更によってその意味は変化しないはずである。ところがもしこの「僕」を他の代名詞、「私」などに変えたら意味が変わってしまう)

 

 なぜこのような言葉の使い方があるのだろうか?学術研究ではないので、思ったところを書くだけだが、こんな風に考えることができるかもしれない。

 

 小さい子供は、人称代名詞の使い方、あるいはその適用の範囲に関して正しい知識を持っていない可能性がある。たしかに、子供は自分の考えや、自分の行動を説明するときに過剰に「僕は〜」とつける。日本語の発話では、かなりの場合これが省略されても意味内容は正しく伝達されるのだか、子供にとっては僕、とつけなければ正しく伝わらないと潜在的に感じてそのように使っているとすれば、転じて大人がたずねる「僕何歳?」という疑問は、「僕」というのが他ならぬ質問の対象であるその子供である、ということを明示しているのかもしれない。

 しかし、この推論には大きな問題がひとつある。それはこの「僕何歳?」に対応する、女の子への問いかけ方が存在しないことである。僕、といったら大抵は男の子への問いかけであるが、上記の議論は女の子でも同様に言えるのではないだろうか。もしかしたら女の子には、やはり男の子とは違う自我があり、それが人称代名詞の理解の違いにつながっているのかもしれない。