毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

効率的とはどういうことか

 効率的であるということは、普通非常に良いことであるといえる。ほとんどの仕事や日常生活においてさえも時間の無駄をなくしたり、時間をうかせて別のことにつかえるようにするのはひとつのスキルとして認められているものだ。

 時は金なりというが、金を時間で得ることはできても(労働)、時間を金でえることは個人にはできない。時間をより価値あるものとして使うことは、非常に重要な問題であると多くの人が考えているのは間違いないだろう。

 友人のT氏は毎朝、顎髭を剃る時間が無駄だということで、すべて永久脱毛したという。たしかに短く見積もっても毎朝3分、ひげそりに時間をつかったとすると一ヶ月で約1時間半、一年で18時間分、活動時間で考えれば約一日分も時間を節約することができる。(脱毛に何時間かかるのかということは知らないが、当然これらより短い時間に設定されていなければ友人もそれを実施しなかっただろう)。逆に考えると私たちは一年のうち一日はひげそりだけをしている日があるくらいの生活をしていることになる。このように書けばT氏がいかに無駄を排除出来ているかが明らかになるといえるだろう。一日も時間があれば、安い脱毛サロンを調べてそれらを詳細に検討するには十分だ。

 このように日常には毎日見逃しつつある無駄な時間が多くあるといえる。以下でそれらを確認し、無駄な時間のないより良い生活を考えたい。以下はある朝をサンプルとして、ここからどれだけ節約出来るかとを考えた。

 

起床(眼鏡を探す時間がむだなためかけたまま寝起きする。約30秒の節約)。

起床後、朝食としてトーストと牛乳(トーストは薄切りを選択し焼く時間を節約、牛乳はコップを使う時間、洗う時間を節約するためにパックから直接飲む。1分30秒の節約)。歯を磨き、顔を洗う(寝癖は重力により、時間をかければなおるため直さない、2分節約)。着替える(寝間着の下に、翌日きる服をきておくことで着替えの時間をなくす。2分節約)。

 

 これだけで6分の節約である。年間では36時間の節約となり、起きている時間で言っても2日分も節約していることになる。2日もあれば、割れた眼鏡を買ったり、シワになった服を洗濯したりできる。

 

 

一億円拾ったら

 

「一億円拾ったらどうするか」という問いは、前後の文脈なしによくあるレベルの(好きな色を聴くのと同じような意味で)質問である。予想される回答は「車を買う」とか、「楽器を買う」とか「貯金する」「募金する」といったものが考えられるが、それも人によって様々であり、おそらくこの質問の意図はその人の欲するものを確認することで人間性が見て取れるというものだろうと思う。

ところで、そのような背景を無視して、なおこの質問はどの程度現実的なのだろうか。

 

 一億円という金額は、日常レベルで現金として見ることはないかが、実際にはそれほどものすごい大金というわけではない(ように思う)。上記の例えば買いたいものを考えると、車ならば大抵の車は(一台は)買うことができるが、買えない車ももちろんある(一億円拾ったら車を買おうと思っている人にはおそらく買えない、というのもまた正しい)。

筆者は音楽家だが、一億円だしても買えない機材はある(ただしその価値は、個人レベルのものである)。

単位が二桁かわって100億円であれば、おそらく世界中に買えないものの方が少なくなるだろう。(それでももちろん、価格がつけられないようなものをのぞいても買えないものはある)。ところが100億円では(10億円であっても)「拾う」ということにリアリティがなくなる。1億円といえばよく見る(実際にはまったくよく見ない)ジュラルミンケースで一つ分である。バンドをやっているギタリストやベーシスト諸君はよくエフェクターをいれる箱をもっているが、実感としてあれを二つ以上もって歩くなどということは現実的ではない。車で移動中でも、10個ましてや100個というのは運ぼうとは思わない。家に帰ってあけてみたらエフェクターだったという方がまだ現実的である。

 

貯金するという人もいるが、貯金をしても1億円くらいでは利子で生活することは期待出来ない(少なくとも銀行では)。リアリティにあるところでは国債など、そこそこ堅実な投資が考えられるが、筆者がしっている限りそのように堅実な人は道に落ちている一億円を自分の懐にいれるようなことはしない。

ウラシマ効果

特殊相対性理論によれば、より光速に近い速度で運動する物体は静止している物体に対して時間が遅れる。これは別に光速に近いほどのすさまじいスピードで動く必要もなく、静止している物質よりも相対的にはやく動く物体は時間が遅れるということである。高速で移動する宇宙船での旅行から帰ってきた人が地球に戻ってみると何千年もたっていた、というようなSFでもこれはよく語られることであるが、これは絵空事でなくれっきとした物理的事実である。

 最近、長距離移動が多くいろいろなところでライブをしているが、飛行機や新幹線で移動すると当然この効果をうけることになる。つまり相対性理論によれば東京にとどまっているよりも、色々なところに速いスピードで移動した方が少し年を取らなくてすむのである。

 ミュージシャンは年齢よりも若く見える人が多いというが、もしかしたらこの効果を受けているのかもしれない。一方で、あきらかに年齢よりも年上にみえる、あるいは若く見えないミュージシャンはツアーには影武者が出かけていっているのかもしれない。

 

すべてのみちは

すべての道はローマに通ず、という言葉がある。道という言葉の定義は非常に厄介であるというのはすでにお察しの通りであるが、ひとまずそのようなことをいったんおくとこれを真であるとしたとき、ひとつのかなり重要な結論が出てくる。それはつまり「あらゆる道はあらゆる場所に通じている」ということである。すくなくともローマさえ経由すればいけないところは(道がつながっている範囲であれば)存在せず、すべての場所に到達することができる。

 はじめてこのことわざを聞いたときにそのように思ったのと同時に、イメージとしてローマというのは円の中心にあってそこから放射状に世界のあらゆるところに道がのびているということを想像した。しかし実際にはよく考えてみればすべてが一次元的につながっていても、つまり直線上に並んでいてもよいわけである。

 

何かしらの専門的なことに従事していると、どうしても自分のいる場所が中心であるように思えてしまってそこから放射状にさまざまなことにリンクしているように思うし、まったくつながってないものがあるようにも思う。しかし実際にはすべてはつながっているし、そのつながり方は「つながっている」という事実からだけはわからないということになる。つながり方をしろうとおもったら、まず最初は地図なしでもその道を歩いてみようとするほかない、という結論に結局は思い至ることとなった。

正しさと証明

 

形式的な論理学をある程度学ぶと、常に真であることと証明が可能であることの関連性についての話が登場する。普通に考えると「正しい」ものは「証明可能」であり、また逆に

「証明可能」なものは「ただしい」ということができそうだ。ゲーデルの完全性定理は一階の述語論理に対して、これを証明したわけだが(と書くと、本質的に非常に紛らわしいといつも思うのだが、そもそもこの紛らわしさを紛らわしさとして受け取る人の閲覧を前提としてないような気もする)、当然それ以外ではこれは必ずしもいえない。

 

ところで、実際に現実のレベルでも証明出来ることと正しいことの間にはギャップがある。よく子供にある事象について「なぜそうなるのか」あるいは「なぜそう思うのか」と訪ねると「本や新聞にそう書いてあった」と答える(大人でもそう答えるような気がするが、そういう人を子供と呼んでもよいだろう。いや、これは子供に失礼だろうか)。例えば「「ある種の漫画やゲームは犯罪の温床である」と新聞に書いてあった」とする。子供は「新聞に書いてあることはすべて正しい」と考えているとすれば、「ある種の漫画やゲームは犯罪の温床である」が帰結する。この推論には間違いは一切ない。この子供は論理的であればあるほど、このような答えを正しく導くことが出来る。(これは一般的に三段論法とい言われるものでAならばBBならばCの両方がなりたてばAならばCがなりたつという考え方のことであると思えばよい)。

 

考え方は完ぺきに正しいが、「新聞はすべて正しい」が正しくないからこの結論は、もちろん正しくない。世の中には悪い人がたくさんいて、論理的にはただしいことをいっているように見せかけることでそもそも前提が間違っているから当然結論も正しいはずがないようなことを、正しいと思わせたりする。

 

ところで、少なくとも私は「ある種の漫画やゲームが犯罪の温床である」とは思わない。(そう思っている人がそれなりにいるらしく、また彼らがあまり論理的には見えないのは不思議なことだ)

 

向いてない人

人には向き、不向きがある。という言説は、かなり無批判に受け入れられている。ここには向いている職業や、学問、スポーツなどが人それぞれあり、出来るだけ向いているものに取り組み、向いていないものはできなくても仕方がないという含意がある。一方で、夢にむかって取り組むことの大切さもよく語られる。もし自分の夢が、明らかに自分に向いていないものだったら、どちらが優先されるべきかという問題にはわかりやすい答えは存在していない。

 

高校生のころ、クラスで一人ひとつ何かの委員みたいなものをやらなければいけなくなかった。なんでも良いと思っていたので特に立候補などもせずにいたら、高校三年のときは卒業アルバム委員になった。この仕事は大変重大である。卒業アルバムの各クラスに割り当てられた一ページの写真をセレクトするのがその主な仕事だ、と教えられた。クラスの写真は文化祭や、修学旅行、その他学校行事などの際にどこにいたのかよくわからないがカメラマンによって撮影されており、それなりの量がある。

卒業近くなって、春先にアルバム委員になったことも忘れていた私(ともう一人同じような理由でアルバム委員になった同級生)は突然招集されて家庭科室みたいなところで写真を並べて、クラスのページにはる写真を選び始めた。写真は100枚くらいあって、そのなかから10枚選ぶ。クラスは40人くらいだから一枚平均4人くらい写っているものを選べば全員がのることになると瞬時に計算した。約一年間委員活動をせずに、計算力を鍛えた成果が発揮される。

ところが、そんなに分散して写っているわけでもないので、案外ちょうどいいバランスがとれない。だんだんとどうでも良くなってきたのだが、決めなければいけないので僕と友人はある方針をとることにした。それは「自分たちが写っている写真を選ばない」ということである。これはそれなりに有効な方針で、これによってかなり写真が絞りこまれた。あとは、先ほどの方法で選べば良い。

 

大体時間にして20分程度。これが唯一の仕事である。他の委員は一年通して仕事があるのに、たったこれだけの仕事でアルバムの最後にはアルバム委員としてクレジットされてしまった。

 

だがよく考えてみると、写真を選ぶときにクラスの一年間の思い出や人間関係、その他多くの要因を考慮して、それをたった20分のパフォーマンスですべて表現するというのはそれほど簡単なことではないかもしれない。

そのような重責からついに解放された思いだったので、実はもうひとつアルバム委員に課せられるはずだった仕事「卒業後の同窓会の幹事」は、上京するため地元での同窓会幹事には向いてない、ということを理由に断った。大体こんな副次的な仕事があるとはしらなかった。ちなみに同窓会は毎回東京在住の友人が開催してくれた。

 

議員に向いてない人、というのはおそらく多くの人に共通している認識だろう。何か不祥事がおきるたびに「あのような人は議員に向いていない」というようにみんなが言い出す。

では向いているのはどのような人だろう。

清廉潔白、質実剛健、頭脳明晰、しかしそのような人はずっと前から別のもっと向いている夢に向かってしまうだろう。

あたまをつかう

「あたまをつかって考えろ」とよく言われるものだが、この言葉が含んでいる意味はそれなりに広い。

まず、考えるという行為は、基本的にあたまをつかう必要があるという前提をほとんどの人が持っているということが念頭に置かれている。(念頭に置かれるという言葉も頭で考えているという前提が念頭に置かれている)。たしかに足や手や爪で考えているとはどうしても思えない。少し難儀な問題に直面した時にはあたまをフル回転させてその問題に対処しているように思えるのは、それほど不自然なことではない。

とはいってもここでいうあたまというのは髪の毛や頭皮のことではなく、私たちの脳のことである。「あたまをつかって考えろ」とは「脳を使って考えろ」と言い換えることができる。しかし誰もが思うように、そして前述したように、脳を使わないで考えるということは現代の常識としてはありえない。ここで主張されているのは、例えば

「1から100までの全ての数をたしなさい」

という問題が出された時に、1か順番に2を足して、3を足して…というようなことをするのが「あたまをつかっていない」ということであり、なんらかの工夫をして簡単にあるいははやく問題をとく方法を考えるということ「あたまをつかう」と表現しているはずだ。

この場合はそもそも出題者の意図として「あたまをつかった方法」と「あたまをつかわない方法」が存在している。そのような場合にあたまをつかった方法をとるのはそれほど難しくない(最悪出題者にきくというのがあたまをつかった解答である)。むしろ現実的な様々な問題にたいして、この二択が本当にあるのか、あるいはそれは検討の余地があることなのかということを判断できる必要がある、とすら思う。

 

ワールドカップの最中だ。サッカーでは技術もそうだが、あたまを使ったプレーが必要となるらしい。冗談でもなんでもないが、サッカーであたまを使うといえばヘディングというプレーがある。あれはどう考えても脳にいい影響があるようには思えないので、本当にあたまをつかったプレーが必要ならサッカーではヘディングを禁止にしたらどうかと思う。