論理的とは何か2
さて、前回論理的であるという観点で、普通使われる推論のふたつを紹介したが、その中でも普通我々が「論理的」そのものであると考えるのは「演繹的推論」のほうだろう。例えば三段論法というのは実に論理的であるし、これは疑う余地がないことのように思える。
ところで、日常レベルで論理的な人、そうでない人というような区別はよくあるがそれが最も端的に表現される場は「理系」と「文系」という区分との対比関係の中にあるのではないだろうか。つまり、理系の人というのは文系の人よりも「論理的」に物事を考えたり、話をしたりするというような話はよく聞くところである。このように考える理由は大きく分けて3つあるように思う。
一つは、「理屈っぽい」という言葉である。理系の人間は理屈っぽい、つまり何にでもその原因や因果関係を見いだそうとする。例えば、普通の人はなぜ車が動くのかわからなくてもその車を運転し動かす事ができれば十分だろう。しかし理系の中でもある一定の人は、それがわからなければ納得がいかないのだという。実際、地球が太陽の周りを廻っていても、太陽が地球の周りをまわっていても実生活の上ではほとんど影響はないだろう。しかしそれらを他の要因とくらべて、因果的に説明出来てこそ納得がいくというのが理系の人によくあるスタンスだ。実際には、このような傾向と「論理的」であることは必ずしも一致しないが、それらが近いものに感じられたことによってこのように思われることになったのだろう。
二つ目はコンピュータである。コンピュータと理系分野はきっても切り離せないものであるし、理系であるということはコンピュータを扱えることだ、というレベルで浸透している。そしてコンピュータの動作は純粋に論理的である。コンピュータは何もしないのにソフト的に壊れる事はないし(これはよく論理的でない人がする主張である)、論理式を誤って推論することもない。このことが理系が論理的であるということの一つの理由になっているといえるだろう。
そして最後は数学である。数学は純粋に論理的な学問である。というのも数学の定理などはすべて論理的に、つまり演繹的に導かれたものであるからだ。誰もが習うような小学校、中学校の算数、数学もどこで誰がどう習ってもその結論は変わる事はない。それはそれらが演繹的に証明されたものだからである。しかし実は、そのことがまさに示しているように数学以外の理系分野というのは実はまったく論理的なわけではない。
次回に続く。
「論理的とは何か1」
「論理的に正しい」という言葉がある。この言葉については、これまでに色々なところで書いているが語り尽くせないほどに多様な意味を持っている(論理的に正しければ意味は一つのような気がするのが不思議である)。今回は論点は「演繹と帰納」である。
推論、つまりある事柄を示そうとしたときに普通、人が選択する方法は「演繹的推論」か「帰納的推論」のどちらかであろう。そうでない、という人はその内容を説明してみてほしい。だいたいどちらかの方法で説明することになる。このふたつをわかりやすく言えば
「演繹的」というのは、一つのルール、決まったこと(つまり少なくともその世界では絶対に正しい事柄)から、別の新たな内容のことを導くことである。例えば、「ソクラテスは人間である」という文と、「人間は必ず死ぬ」という文がどちらも正しい事柄であるとすれば、そこから「ソクラテスは必ず死ぬ」という新たに(本当に「新たに」なのかはよく考えてみよう)正しい事柄が導かれる(これはそのような方法論のひとつで「三段論法」という名前がついている)。
一方「帰納的」というのは、いくつかの事実から、一般的な一つのルールを導くことである。似たような例で言えば「ソクラテスは必ず死ぬ」、「プラトンは必ず死ぬ」、「アリストテレスは必ず死ぬ」etcなどを集めていって、「人は必ず死ぬ」という一つの一般的なルールを導くといったような感じである。
ところで、こう書くとある程度普通の感性をもった人なら本当に論理的に正しいのは「演繹的推論」の方だけなのではないかというように思うのではないだろうか。上記の三段論法は、見た感じこれらを否定することはできなそうである。(前提の「人は必ず死ぬ」は正しくない場合もある、と思うかもしれないが、あくまでもこれは前提であり、これが必ず成り立つということをスタートにしていることに注意)。しかし一方「帰納的推論」はいくらソクラテスとプラトンとアリストテレスと、他にどれだけたくさんの人間をあつめてそれらがいつかは死ぬということをいったところで、もしかしたら世界のどこかには不老不死の人がいるかもしれないという可能性をぬぐえないのだから、「人は必ず死ぬ」という結論は必ずしもでてこないのではないか、と考えるのはそれほど変なことではないだろう。
しかし、たしかにこのどちらもを我々は普通に使っている。というよりも大概の場合、「帰納的推論」のほうを使っているといってもよい。私たちが事実正しいと思っていることのほとんどは「帰納的推論」による。(例えば明日も地球は太陽のまわりをまわる、とか)。そう思わないという人は、日常生活の中で演繹的に正しい事実の例を考えてみるとよいだろう。
とりあえずここまでのところ、所謂論理には大きく分けて二つの種類があるということを確認して、今後の話を読んでください。(続く)
どうでもいいこといいますけど
僕何歳
日本語の用法には色々な不思議がある。そもそも絶対的なスタンダード言語はあってもなくてもよいのだから別に他の言語と比べて変なところがあっても良いのだけれど、その言語の内部での「何でこんな言い方があるのか」わからない言葉遣いだけでも枚挙にいとまがない。
さてその中でも子供の頃から頻出度トップクラスの謎な用法が
「僕何歳?」
というタイプの疑問文だ。これは大人が小さな子供(男の子)に年齢を訪ねている。英語でいえばHow old are you?で中学校一年生でも理解できる意味内容だ。
ところがこの文をごく普通によめば、「わたしは何歳なのでしょうか?」という自分に関する疑問だと読める。(やや面倒な話になるので、その理由はこのカッコ内で。読み飛ばしても可。簡潔に文の真偽をその文の意味とするならば、人称代名詞、特に一人称の変更によってその意味は変化しないはずである。ところがもしこの「僕」を他の代名詞、「私」などに変えたら意味が変わってしまう)
なぜこのような言葉の使い方があるのだろうか?学術研究ではないので、思ったところを書くだけだが、こんな風に考えることができるかもしれない。
小さい子供は、人称代名詞の使い方、あるいはその適用の範囲に関して正しい知識を持っていない可能性がある。たしかに、子供は自分の考えや、自分の行動を説明するときに過剰に「僕は〜」とつける。日本語の発話では、かなりの場合これが省略されても意味内容は正しく伝達されるのだか、子供にとっては僕、とつけなければ正しく伝わらないと潜在的に感じてそのように使っているとすれば、転じて大人がたずねる「僕何歳?」という疑問は、「僕」というのが他ならぬ質問の対象であるその子供である、ということを明示しているのかもしれない。
しかし、この推論には大きな問題がひとつある。それはこの「僕何歳?」に対応する、女の子への問いかけ方が存在しないことである。僕、といったら大抵は男の子への問いかけであるが、上記の議論は女の子でも同様に言えるのではないだろうか。もしかしたら女の子には、やはり男の子とは違う自我があり、それが人称代名詞の理解の違いにつながっているのかもしれない。
効率的とはどういうことか
効率的であるということは、普通非常に良いことであるといえる。ほとんどの仕事や日常生活においてさえも時間の無駄をなくしたり、時間をうかせて別のことにつかえるようにするのはひとつのスキルとして認められているものだ。
時は金なりというが、金を時間で得ることはできても(労働)、時間を金でえることは個人にはできない。時間をより価値あるものとして使うことは、非常に重要な問題であると多くの人が考えているのは間違いないだろう。
友人のT氏は毎朝、顎髭を剃る時間が無駄だということで、すべて永久脱毛したという。たしかに短く見積もっても毎朝3分、ひげそりに時間をつかったとすると一ヶ月で約1時間半、一年で18時間分、活動時間で考えれば約一日分も時間を節約することができる。(脱毛に何時間かかるのかということは知らないが、当然これらより短い時間に設定されていなければ友人もそれを実施しなかっただろう)。逆に考えると私たちは一年のうち一日はひげそりだけをしている日があるくらいの生活をしていることになる。このように書けばT氏がいかに無駄を排除出来ているかが明らかになるといえるだろう。一日も時間があれば、安い脱毛サロンを調べてそれらを詳細に検討するには十分だ。
このように日常には毎日見逃しつつある無駄な時間が多くあるといえる。以下でそれらを確認し、無駄な時間のないより良い生活を考えたい。以下はある朝をサンプルとして、ここからどれだけ節約出来るかとを考えた。
起床(眼鏡を探す時間がむだなためかけたまま寝起きする。約30秒の節約)。
起床後、朝食としてトーストと牛乳(トーストは薄切りを選択し焼く時間を節約、牛乳はコップを使う時間、洗う時間を節約するためにパックから直接飲む。1分30秒の節約)。歯を磨き、顔を洗う(寝癖は重力により、時間をかければなおるため直さない、2分節約)。着替える(寝間着の下に、翌日きる服をきておくことで着替えの時間をなくす。2分節約)。
これだけで6分の節約である。年間では36時間の節約となり、起きている時間で言っても2日分も節約していることになる。2日もあれば、割れた眼鏡を買ったり、シワになった服を洗濯したりできる。
一億円拾ったら
「一億円拾ったらどうするか」という問いは、前後の文脈なしによくあるレベルの(好きな色を聴くのと同じような意味で)質問である。予想される回答は「車を買う」とか、「楽器を買う」とか「貯金する」「募金する」といったものが考えられるが、それも人によって様々であり、おそらくこの質問の意図はその人の欲するものを確認することで人間性が見て取れるというものだろうと思う。
ところで、そのような背景を無視して、なおこの質問はどの程度現実的なのだろうか。
一億円という金額は、日常レベルで現金として見ることはないかが、実際にはそれほどものすごい大金というわけではない(ように思う)。上記の例えば買いたいものを考えると、車ならば大抵の車は(一台は)買うことができるが、買えない車ももちろんある(一億円拾ったら車を買おうと思っている人にはおそらく買えない、というのもまた正しい)。
筆者は音楽家だが、一億円だしても買えない機材はある(ただしその価値は、個人レベルのものである)。
単位が二桁かわって100億円であれば、おそらく世界中に買えないものの方が少なくなるだろう。(それでももちろん、価格がつけられないようなものをのぞいても買えないものはある)。ところが100億円では(10億円であっても)「拾う」ということにリアリティがなくなる。1億円といえばよく見る(実際にはまったくよく見ない)ジュラルミンケースで一つ分である。バンドをやっているギタリストやベーシスト諸君はよくエフェクターをいれる箱をもっているが、実感としてあれを二つ以上もって歩くなどということは現実的ではない。車で移動中でも、10個ましてや100個というのは運ぼうとは思わない。家に帰ってあけてみたらエフェクターだったという方がまだ現実的である。
貯金するという人もいるが、貯金をしても1億円くらいでは利子で生活することは期待出来ない(少なくとも銀行では)。リアリティにあるところでは国債など、そこそこ堅実な投資が考えられるが、筆者がしっている限りそのように堅実な人は道に落ちている一億円を自分の懐にいれるようなことはしない。
ウラシマ効果
特殊相対性理論によれば、より光速に近い速度で運動する物体は静止している物体に対して時間が遅れる。これは別に光速に近いほどのすさまじいスピードで動く必要もなく、静止している物質よりも相対的にはやく動く物体は時間が遅れるということである。高速で移動する宇宙船での旅行から帰ってきた人が地球に戻ってみると何千年もたっていた、というようなSFでもこれはよく語られることであるが、これは絵空事でなくれっきとした物理的事実である。
最近、長距離移動が多くいろいろなところでライブをしているが、飛行機や新幹線で移動すると当然この効果をうけることになる。つまり相対性理論によれば東京にとどまっているよりも、色々なところに速いスピードで移動した方が少し年を取らなくてすむのである。
ミュージシャンは年齢よりも若く見える人が多いというが、もしかしたらこの効果を受けているのかもしれない。一方で、あきらかに年齢よりも年上にみえる、あるいは若く見えないミュージシャンはツアーには影武者が出かけていっているのかもしれない。