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毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

SFとして観る『君の名は。』(ネタバレあり)

君の名は。

ストーリーとして難しい話だった、という感想があるのを聞いて驚いたのだが、これだけ多くの人が見ているのだから、アニメでも映画でも定番であるタイムリープタイムパラドックスSFものを人生で初めてみたという人もいるのだろう。それはすごいことで、衝撃の映画体験だったかもしれない。

タイムリープというのは時間跳躍のことで、突然昨日自分や何年も前の自分、あるいは未来の自分に意識が飛ぶことで、体ごと移動するタイムトラベルとは一応こういった意味で区別されている。その手のものを映画ではじめてみた人にはなんのことやらだが、「君の名は。」はタイムリープで、「バックトゥザフューチャー」はタイムトラベルだ。(ざっくりしすぎているが「名探偵コナン」は、意識ではなく身体がタイムリープしている、とも言える)

わたしが江戸時代にタイムトラベルしたといえば、今の身体と精神のまま、突然江戸時代の世界に投げ込まれることであり、また普通の意味では自分のまま江戸時代にタイムリープすることはできない(江戸時代に自分はいないから)。「君の名は。」では別時間の別人の体に意思がうつるので、この世界観では江戸時代へのタイムリープも可能である。

そして、タイムリープもの、あるいはタイムトラベルものにはもはやそれを抜きには語れないのが「タイムパラドックス」という概念だ。もっとも有名なものが「親殺しのパラドックス」というもので、簡単にいえばタイムリープタイムパラドックスで過去に戻り自分を産む前に自分の親を殺すことはできるか、というものである。単純に物理的に考えれば可能に思えるが、もし出来たとすると今そこにいる自分はいったい何から生まれたことになるのだろうか、という問題である。
パラドックスという言葉を厳密に定義するのは難しいが、このようにどのように考えても矛盾が出てしまうので、これをタイムパラドックスと呼んでおり、他にも様々なパターンが考えられる。

君の名は。』でも、三葉とタキによる「世界の改変」(SFではよくこの用語が使われるが、つまり元々の歴史がタイムトラベルしてきた人物やもの、その行動によって変化し、別の歴史が生まれることである。改変される前、あるいはあとのそれぞれの歴史のことを「世界線」ということもある)によって、災害による人的被害がなかった世界に歴史が書き換えられる。すると、タキ(そしてその世界線の住人)がその災害による被害を認識することができなくなるため、そもそもその被害を防ぐことができなくなるのではないか、というごく初歩的なタイムパラドックスが発生する可能性がある。
もちろん、そんなことを気にせずに楽しめばいいのだが(非現実性はそもそもの前提なので)、「難しい」と感じる人が一定数いる理由はそういった部分の説明の足りなさとあやうさにある。
 
普通、ひとはある出来事や物語(いまのところこれらの語彙に特別な意味はない)を因果の系列として捉えている。簡単にいえば、過去が現在や未来の出来事の原因になる、ということを前提とした上でものごとを理解しているはずだ、ということだ。(因果というのは原因と結果の関係のこと)
タイムパラドックスに関しては、この因果の系列が転倒することがまさにそのパラドックスの由来である、と考えることができる。それは、結果よりも時間的には後に原因が存在するということである。
これは普通の意味での因果の理解とは異なるから、当然SFに慣れている人以外は本来は「おかしい」と思うことである。

まあ、ところが実際にはタイムトラベルの概念、そして因果の転倒は概念としてはそれほど想像不可能なことではない。「バックトゥザフューチャー」などを見たことがある人などタイムトラベルもののSFを知ってる人はもちろん、「君の名は。」で初めてそれに触れた人すら最後には一応ストーリーの因果関係を理解できるはずだ。

1.災害発生

2.過去に戻る

3.災害を食い止める

4.災害はなかったことになる。

ところで、なぜこれがさほど不自然でないかといえば、それは3の時点で、1、2にいたタキは「過去」にタイムリープしているからで、実際には
3が原因となって→4という結果が起こるという因果は転倒していないからである。つまり我々のように映画をみている人という外側からみれば、因果は転倒している(ようにも見える)が物語内の世界においては何も問題はおこっていないととらえることができる。

それでもタキと一緒に糸守にいった二人などある種「神の視点」(視聴者の視点)にいられるべき存在に関しても、4において「記憶がなくなっている」ということで、因果の転倒への気づきがありえないということが考慮されている。

このような理解の前提には非常に強い二元論がある。
それは
「精神」と「身体」は少なくとも因果に関して、異なる存在論をもっているということである。(言葉が難しくなりがちだか、「存在論」を「理論」とよんでもいいし、「理屈」と考えてもほとんど問題ない。また二元論というのは今でいえば「精神」と「身体」にはそれぞれ別の理屈がはたらいていて、どちらかでもう一方を説明することは難しいというような意味で考えてもらえればよい)。

どういうことかといえば、上記の
3→4において、因果の転倒がおきていないといえるのは「身体の世界」だけの話だということである。実際にはタキの精神は未来の時点のものだ。(2016年の記憶があるから。しかしその精神が2013年の三葉の身体に入ることで、一件転倒しているかに思える因果は、あくまで身体と物理的世界の話だけを記述すれば
「2013年の三葉の身体による作用で、2013年の被害が回避された」ということになり、この文には論理的にも物理的にもなんの問題もない。そして映画をみてる我々も当然そのように最終的には理解することになる。

しかし、前述したようにこれは見かけ上の「解決」にすぎない。それは結局「精神」に関する因果の転倒を何も説明できないからだ。ここでとれる選択肢のひとつは上記の強い二元論を採用し、「精神」に関しては因果系列を認める必要はないと考えることである。
 例えば、一族で代々力をもっている場合、特別なお酒を飲んだ場合などは精神が因果の系列を転倒させることができるといった具合である。

 実はこのときに前提となっているのは、我々ができごとやその他もろもろを含めたこの「世界」を物理的な世界(身体的な世界)と捉えているということである。そしてこの身体的な世界は当然、因果の系列を正しく満たすし、その他我々のイメージしている常識と矛盾なく存在する。そして人の身体もその世界の一部として存在する。しかし「精神」はそれとはまったく別のものであり、別の存在論を満たすというふうに捉えることになる。

タイムリープ系のSFはどうしてもこの点についてはこの立場に近いものを取らざるをえない。

では、
タイムトラベルものの代表である「バックトゥザフューチャー」に関して、同様に時間軸と因果系列を考えてみよう。下地にするのはpart1,2である。(結構なネタバレになるが、実際ネタバレを読んだ後みても面白いのがこの映画のもっともすごいところのひとつ)

ざっくりまとめよう。

あらすじ
1985年現在、さえない両親や兄弟をもつ主人公マーティは、そして発明家で友人のドク。ある日、マーティはドクから「タイムマシン(デロリアン)が完成した」と告げられる。しかしドクはドクがタイムマシン開発のためにテロリストから材料をだましとったことの復讐のためテロリストに銃撃されてしまい、マーティもテロリストから逃げるためドクの作ったデロリアンにのって(ここを85-Aとする)、自分が生まれる前、そして両親が結ばれる前の30年前1955年にタイムトラベルする。しかしここで(55-Aとする)、マーティは両親の出会いを偶然邪魔してしまい、このままでは両親は結婚せず自分は生まれることもなくなってしまう。そしてタイムマシンは燃料がきれ、その燃料は1955年では手に入れることができないため1985年にももどれない。なんとか両親を結びつけることに成功したマーティは85-Aでもらったチラシをみて、55-Aで大きな落雷があったことを知り、55-Aのドクと協力してそのエネルギーを利用して1985年にかえることができた(85-B)。85-Bのドクは55-Aでマーティからもらった手紙のおかげでテロリストからの銃撃にそなえて防弾チョッキを準備できていたため助かっていた。また55-Aでのマーティの活躍によって85-Aでは冴えない感じだった両親や兄弟は85-Bではすっかり雰囲気がかわっており、家も裕福になっていた。
めでたしめでたし(ここまでがpart1)

さらに85-Bからマーティとドクはマーティの未来の家族におこる不幸をなんとかするため、2015年に向かう。ここで、その問題自体は解決するが、デロリアンを一時的に悪役のビフに奪われ、ビフはデロリアンにのり、1955年にもどりそこで1955年のビフ本人に1955年以降のギャンブルなどの結果がのった本を渡し、2015年に戻ってくる。デロリアンはマーティたちの元にもどったが、そのデロリアンにのって1985年にもどるとそこはすっかり変わり果てたビフが支配する世界になっており(85-C)、マーティの父は死亡していた。もう一度2015年に戻ったとしてもそこは85-Cの世界から続く未来にすぎないため、原因が1955年にあることをしったマーティとドクは1955にまた戻ることになる。この1955年(55-B)で、マーティとドクは未来のために本を取り返すことに奮闘する。(part2途中まで)

といった感じである。

とはいっても見たことがなければこれだけで実際に話を追うのは難しい。ただこれ以上にわかりやすい例もあまりないのでこれをつかって考えてみよう。ここでいえるのは、
55-Aでのマーティの行動は1985年に影響を与えるが、その際に世界の改変がおこり、身体と精神のどちらもが時間移動しているマーティが帰ることができる1985年は85-Bのみになっているということである。

また2015年での活動により、1955年に影響がでるため、85年がさらに改変され85-Cとなる。この改変を是正するには1955年に再度戻り、この55-B
において55年のビフから本を奪わなければならない。

実はここでも「君の名は。」と同じ存在論はいきている。それはつまり、「物理的な因果は転倒してない」ということである。身体的な、あるいは物理的世界の出来事としては(例えば誰かが成長するとか金持ちになるとか、といったこと)

55-A→85-B
55-B→85-C

という世界改変は因果の系列に反していない。(時系列順である)そして55Bで本をとりかえすことができたならば、新たに85-Dがうまれるはずだ。身体とともに精神も移動するためもし、我々がマーティと同じ視点をもつとすれば我々は時間移動をしたというよりも、別の世界線に移動している、といったほうがよいかもしれない。

ところで、公開から何万回もいわれているであろうことだが、上記の中だけでも一箇所あきらかなタイムパラドックが存在する。
それは2015から1955にいき世界を改変したはずのビフがなぜおなじ2015年に戻ってこられたのかということである。「君の名は。」においても、改変後はタキは実質的に別の世界にいることなる(災害を回避した世界)。つまり改変が行われた以上、2015年のマーティのもとにはデロリアンは帰ってこないはずなのだ。このパラドックスはおそらくこの枠組みでは解決不可能だ、というかこれは実はパラドックスではない(たんに論理的に間違っている。)しかしこのようなパラドキシカルな問題がでてくる理由はやはり前述の因果に関する二元論的問題によるだろう。劇中、すくなくとも映画をみている人間はマーティの視点(精神)から物語をとらえることになる。するとその視点に関して言えば、ビフが車に乗って帰って来る、というただ事実がそこにあるだけである(というかそう描写されている)。よって、結局は視点をどこにおくかということ、あるいは精神と身体の二元論としていえば、我々は物語の理解を身体的に、しかしただ物語をみることを精神的に行っていることになる。タイムトラベル、タイムリープに関しての多くの違和感はそこに由来しているように思われる。


実は「君の名は。」のラストで、タキが三葉に気づくのはまあ組紐が理由でいいとして、その逆に三葉がタキに気づくのはなんとなく釈然とせず、単に男の願望の表れにしか思えない、という感想をもった。
しかし、実はこれは因果の系列に関して、自分自身がこの物語をタキの視点から見ている場合にのみ現れてくる問題なのかもしれない。(実際にストーリーテリングはそのように誘導しているので仕方ないにしても)、もし視点が三葉あるいは、2013年の世界線にあったとすれば、ラストでの気づきには純粋に因果的な、あるいは必然的な理由がありえるのかもしれない。なぜなら、すくなくとも三葉は何らかの理由によって、(それが「未来」のタキであるとわかる必然性はないにしても)災害を回避する行動をとったわけでまさにその因果を説明できるような原因を「君の名」に求めることができるからである。