毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

時間がループする世界の話1

先日、お仕事関連の方(といいつついまだ仕事はしたことがない方)に誘われて、はじめて「リアル脱出ゲーム」に参加した。正確なところでは、僕が参加したのはリアル脱出ゲームとはちょっと違っていて、「リアルタイムループゲーム」というらしい。リアル脱出ゲームも参加したことがないのに最初から派生作品をとも思ったが、かなり楽しめた。

 リアル脱出ゲームというのは、ある会場にあつまった参加者が色々なゲームをクリアしていくことでその場所から脱出する、という行程を楽しむものだが、今回参加した
「アイドルは100万回死ぬ」
というゲームの内容は、十回のタイムループ(ある一定時間で時間が巻き戻る)の中で毎回死んでしまうとあるアイドルを助けることができればクリアというものだった。内容にあまり触れすぎるとネタバレになるので、ひとまずは以下で概要を確認してもらいたい。

realdgame.jp



さて、このブログでも何度か、とりあげている「タイムトラベル」もののストーリーなわけであるが、この設定からSFものミステリ好きであればおそらく

西澤保彦『七回死んだ男』

を思い出すだろう。

こちらに関しても内容のネタバレは避けなければならないので、この手のタイムループものの構造そのものについていくつか考えることにしたい。

映画『君の名は。』に関する同様の考察はこち

 

shoyamamoto.hatenablog.com


 記憶をひきついだまま、時間が逆戻りし何分間か前に戻る、という条件設定だが、これはいくつか整理しなければならない点がある。まず何分間か前にもどる、と自分が確認できている以上「記憶」あるいは「意識」は元に戻るわけではなく、もともとの時間の流れのときにもっていたものを引き継ぐことになる。つまり何度繰り返していても、我々の意識だけは繰り返すことなく「ひとつ」のままだ。脱出ゲームでは当然、我々の身体も数分前とか数時間前とかに戻ることはできないから、意識とともに身体も引き継ぐことになるが、映像作品や小説などでは記憶だけがループする場合もある。たとえば『リプレイ』という小説では、ある年齢になると、かならず何十年か若い時代に記憶だけがもどり、また同じ地点から人生を繰り返すという設定が持ち込まれている(もちろん前世の記憶があるので、まったく同じ人生にはならず、それを利用してお金儲けをしたり、と色々なことが考えられるし、実際に作中でもそのようなことが行われる)。
 身体がループしない場合は、このループには必然的に肉体的死というゴールがあることになるが、そうでない場合、このループには終わりがないかもしれない。実際にいくつかの作品では、最初はそのループを喜んでいたが永遠に終わることのないループに気づき、最終的にはそのループから抜け出すことが目的となっている。
 もう一ついえば、そもそも記憶も繰り返しているという作品を想定することもできる。そもそも、上記のような場合でも自分とそのループを繰り返していることを自覚している人以外は、記憶や意識も繰り返していることになるが、そのような繰り返しに気づいている人がひとりもいなかった場合、どうなるだろうか。我々は実はすでに同じ時間を何回も繰り返している可能性はある。このように考えることは少なくとも論理的にはなんの不合理もない。(というか時空間に一定の流れがあると考えるほうがむしろ不自然だ、という人も多いだろう)我々はそれに気づく手立てはない
 しかしそのような状態を考えることは、少なくともタイムループという現象の内容を理解することにはあまり役に立たないように思える。面白そうなのはやはり、

「自分だけ、あるいは自分と特定の誰かだけがある一定の時間を意識や記憶だけを保ったまま繰り返している」

というタイプのものである。今後も使うかもしれないのでこれを「リプレイ型タイムループ」と名付けておく。

 タイムトラベルに関しては、これまでもなんども書いたように「パラドックス」との関係が不可避となる。その中でも最も有名なものが「親殺しのパラドックス」だ。身体ごと移動するタイプのタイムトラベルでは、たとえば自分が生まれる前の時代に戻って、自分の親を過去で殺してしまうということが物理的には可能そうだが、そうすると自分は生まれなくなってしまい、親を殺す存在がいなくなるので殺人は成立しなくなる、という矛盾した状況が生まれる。さて、このようなあまり気分のよくない例を持ち出さなくても、例えば次のようなパターンが考えられる。

例1
最近近くで火事がおこった。どうやら放火らしい。数日前、火事よりも前にタイムループしてもどった自分は警察に連絡し、火事がおこることになる家の付近で不審な人影をみたことを伝えた。その結果、警備がされるようになり、放火犯は犯行に及ぶことができなった。そして火事は起きなかった。

この場合、自分が「火事がおこった」という情報をいったい何からしったことになるのだろうか。もちろん、前回のループの記憶である。自分だけが記憶を持っているのだから、それ自体は何もパラドックスはないように見える。しかし考えてみるとこれは少しおかしい。なぜなら、我々はさきほどの親殺しのパラドックスパラドックスであると感じたはずだからだ。

AがBの発生に影響をあたえる、Bが(Aより前におこった)Cの発生に影響を与える。Cの影響でAがおこらないことになり、Aがおこらないので、Bが発生しないということだ。

我々がこれを何か矛盾したものであるととらえる最大の原因は、最初にAがおこりそれによってBがおこったという「オリジナル」の歴史があると思っていることである。このオリジナルに対して、それぞれ変更された別の歴史が発生し、その変更されたふたつめの歴史ではAの発生が未来をしった干渉者の手によって(いわば未来から)阻止されることになる。しかし、これをCという地点からスタートした歴史としてみれば、実は何も問題はないのである。

 さて、このリプレイ型タイムループの場合、身体ではなく、記憶や意識といった「情報」が未来から過去に影響を与えることになる。物理的な因果関係が、通常過去から未来への時間的な順序のルールから絶対に逃れられないのに対して、情報はその限りではないということが前提とされている。
 ここでもうひとつ問題を考えてみよう。

例2
ある日ポストに入っていた手紙の封をあけるとそこにはタイムマシンの作り方が書いてあった。タイムマシンに興味をもっていた科学者の私は、そこに書かれているいままでみたこともない斬新な理論や技術の数々がどうやら正しそうだと直感し、そこから10年の歳月をかけて、理論を解読し、必要な部品をつくりようやくタイムマシンを完成させた。私は完成したタイムマシンにのり、10年前の我が家を訪れ、ポストにこの10年の研究の成果を記した手紙を投函した。

この例において、問題になるのは、果たして「最初にタイムマシンの理論を考えたのは誰なのだろうか」ということである。私はタイムマシンをある手紙にのっとって開発し、その理論を完成させた。しかし実はその手紙をかいたのは、その理論を完成させた未来の自分だったのである。藤子.F.不二雄の短編などでも時折みられるこのような状況だが、これはパラドックスが発生しているといえるのか微妙な問題である。パラドックスとはふたつの状況がどちらでも矛盾するのだが、この場合は特に矛盾が発生しているわけではない。しかし何か奇妙な感じがする。
 それはやはり「物事にははじまりがあり、それが原因となって他のできごとがおこる」という前提を我々がもっているからだろう。この例で言えば最初にタイムマシンの原理を考える、というスタートがあってはじめてタイムマシンの理論が完成するという結果があるはず、ということである。しかしここではその順序が必ずしも守られているとはいえない。これについてもいくつか説明するための方法はあると思うが、またの機会にするとともに、ここで実際にどのようなことが起こっているといえるのか、もう少々議論してみたいところである。