毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

論理的とは何か2

 

 さて、前回論理的であるという観点で、普通使われる推論のふたつを紹介したが、その中でも普通我々が「論理的」そのものであると考えるのは「演繹的推論」のほうだろう。例えば三段論法というのは実に論理的であるし、これは疑う余地がないことのように思える。

 ところで、日常レベルで論理的な人、そうでない人というような区別はよくあるがそれが最も端的に表現される場は「理系」と「文系」という区分との対比関係の中にあるのではないだろうか。つまり、理系の人というのは文系の人よりも「論理的」に物事を考えたり、話をしたりするというような話はよく聞くところである。このように考える理由は大きく分けて3つあるように思う。

 一つは、「理屈っぽい」という言葉である。理系の人間は理屈っぽい、つまり何にでもその原因や因果関係を見いだそうとする。例えば、普通の人はなぜ車が動くのかわからなくてもその車を運転し動かす事ができれば十分だろう。しかし理系の中でもある一定の人は、それがわからなければ納得がいかないのだという。実際、地球が太陽の周りを廻っていても、太陽が地球の周りをまわっていても実生活の上ではほとんど影響はないだろう。しかしそれらを他の要因とくらべて、因果的に説明出来てこそ納得がいくというのが理系の人によくあるスタンスだ。実際には、このような傾向と「論理的」であることは必ずしも一致しないが、それらが近いものに感じられたことによってこのように思われることになったのだろう。

 二つ目はコンピュータである。コンピュータと理系分野はきっても切り離せないものであるし、理系であるということはコンピュータを扱えることだ、というレベルで浸透している。そしてコンピュータの動作は純粋に論理的である。コンピュータは何もしないのにソフト的に壊れる事はないし(これはよく論理的でない人がする主張である)、論理式を誤って推論することもない。このことが理系が論理的であるということの一つの理由になっているといえるだろう。

 そして最後は数学である。数学は純粋に論理的な学問である。というのも数学の定理などはすべて論理的に、つまり演繹的に導かれたものであるからだ。誰もが習うような小学校、中学校の算数、数学もどこで誰がどう習ってもその結論は変わる事はない。それはそれらが演繹的に証明されたものだからである。しかし実は、そのことがまさに示しているように数学以外の理系分野というのは実はまったく論理的なわけではない。

 次回に続く。