毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

バンドというものが解散するとおこること(の中で知っていること)


 2年前に、2012年くらいからやっていたふぇのたすというバンドが解散して(解散を決めたのはメンバーである自分とボーカルのみこだったので、解散させて、というのが正しいかもしれないけれど)、当時は本当に解散してどうするか、ということなんか2人とも1mmも考える余裕も時間もなくて、続けるべきか解散するべきか、それと解散するとすればどんな終わり方をするべきか、ということを、その時は考えていた。
 自分の感覚としても信じられないことなのだけれど、メンバーだったミキヒコが2015年の5月に亡くなって、そこからふぇのたすを続けるか続けないか決める瞬間までの記憶があまりない。2年以上前のことだから覚えてないということではなくておそらく本当にその間は何も考えていなかったような気がする。それより前のことはよく覚えているし、ミキヒコと最後に話したことも覚えているから。じゃあなんでその数ヶ月のことを覚えていないかというと、そこまでの数年自分はほとんどバンドのことしか考えてなかったからではないか、と今になって思うようになった。だから、急にバンドのことを具体的に何もできない、自分にはどうしようもない数ヶ月がやってきたときに、自分にはすっかり自分の中心にすえて考えることがなくなってしまった。実際にバンドをどうすべきか、ということをみこと一緒に考える瞬間まで本当のところバンドを続けるべきなのか、という本質的な問題は考えられていなかったんじゃないか、とすら思えてくる。
 それで結論を出してみて、自分たちにとってバンドのこれからのあり方が決まったら、後のことは、ある意味でバンドをそれまで応援してくれた人たちのものだから、それに向かって何をすべきか、考えるだけだった。
 解散ライブは、いいライブだったと思う。当日のことはあんまり覚えてないんだけど、ファンの人の色々な声があって、のちに解散ライブの上映会をやれたので、そこで幸運にも自分たちの解散ライブをみることができた。自分たちのつくってきたものが消えて、また蘇って、そしてまた消える。

「バンドが解散しても音楽は残る」という言葉は自分もいったことがあるような気がするし、自分たちのバンドが解散するときもたくさんそういう言葉をきいた。もちろん、それはその通りで、今だってふぇのたすの曲を聴くことはできるし、それはこの時代だからこそなのかもしれない、本当にありがたいことだ。ただ、それでもこの言葉には現実とは、ほんのすこしギャップがある。ただ単に残された音楽というのは、必ずしもそこにあるといえるだろうか。自分にはただそこに漠然と、おいていかれただけの音楽は残された作品だとはいまだにいえない。どうしてかといえば、自分たちがやっていたのは、単に音楽を制作するということではなくて、バンドという活動だったからだ。それは、まさにかいたように、生活のすべてにコミットするようなものだった。
 それでも実際のところ今言いたいのは、「バンドが解散しても音楽は残る」という言葉が、いま嘘のように思えるかというとまったくそんなことはない、むしろそれこそが真実だということだ。
 なぜなら、みこが今、SHE IS SUMMERとして彼女の音楽を続けていて、あの頃信じていた人たちはみんな自分の音楽を続けていて、自分も作詞や作曲、プロデュースで自分の思う音楽を更新していて、それによって2年前に残された音楽もまた、「残されたいま聴ける音楽」としての存在を保ち続けることができているように思えるからだ。バンドは解散しても音楽は残る。
 バンドというものが解散するとおこることの中でひとつ、2年たってこんなことを知ることができた。

共感はしなくてもいい

歌詞に共感する、と時々言われる。いい歌詞だ、と思ってくれてるのならもちろんありがたいのだけど、共感という言葉を使わずに表現してみるのはどうだろうか、と思ってしまう。

人の心はわかったと思ってもよくわからないし、わかる必要はどこにもない。むしろ簡単にわかってしまうようなものは正解ではないように感じる。嬉しいとか悲しいとか、そういう言葉にだって程度や段階や温度や色があるはずである。
共感、というワードはそれらを無視した、少しばかりの冷たさを感じる。

それでも時々、どうしてもこれは自分の気持ちを歌っている、と思わざるを得ない曲が時々あって、それを共感と呼ぶならそうしかないのかもしれないけれど、きっとその瞬間は歌詞を書いた誰かや歌っている誰かよりもその人自身が自分の歌だと名付けてしまうのもよい。

「わたしの歌でした」と言われた方が嬉しいかもしれない、という話。

音楽の権利とメロディの存在論1

JASRACが話題になることがとても多い。本当のところはどうあれ、一般的にはその活動と理念のギャップ、あるいは著作権管理に対するイメージの色々など、実態と世間のイメージが必ずしもあっていないのだろう。
 そのような企業は多くあるようには思うが、「音楽」というJASRACが扱っている商品、そして権利そのものは身近なものなので、消費者、使用者側の拒否反応が大きくなっている。

 と、このようにさも社会問題を扱うかのような書き出しをしておいてなんなのだが、いや、実はそれを扱わないというわけでもないのだが、以下では音楽作品(楽曲、歌詞など)とはいったい「どんな感じ」のものなのかということを扱いたい。どんな感じ、というのもかなりどんな感じかわからないのだが、そうとしか現状言いようがないのだ。哲学的な用語の使い方になれた人なら「存在論」という言葉がある程度ぴったりくるかもしれない。

 どうして、音楽作品が「どんな感じ」のものなのかをあえて語る必要があるのだろうか。それを前述のJASRACの問題から考えてみよう。
 
 JASRACは楽曲の管理をしている団体である。ではその管理とはなんだろうか。ここで、たとえば同じく芸術作品である絵画を考えてみる。ゴッホの「ひまわり」といわれる絵のひとつは日本にある「東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館」が管理し、またその所有の権利を「損害保険ジャパン日本興亜」が持っている。ここでいう管理とはざっくりといってしまえば、絵画という物理的な対象、つまり物体をそのかかれた状態のまま保存することである。基本的には動かしたりはしないだろうが、それを動かすことも可能であり、そのことは絵を管理しているということの範囲内で行われる。しかしたとえばそこに新しい色を足したりすることは許されない*1。そして美術館はその作品をみるための入場料を、利用者に課すことができる。
 一方で、楽曲を管理するということはそれとはかなり様子が違う。まず管理すべき楽曲というのは物理的な対象、物体ではない。一般的に曲を作るということ、つまり作曲といわれる行為は少なくともこの楽曲管理の観点からすると、「メロディを固定すること」であると考えられている。しかしそれは、物理的な対象ではない。たとえばそのメロディをピアノで弾いたとしよう。その演奏は音波という物理的な対象となり、またそれが録音されればデータとして保存されることになる。しかしその音波や、データはその作曲者によって作られたメロディそのものとはいえない。なぜなら、たとえばそれをギターで弾いたとしてもやはりそれは同じメロディを演奏したことになるからだ。*2ではそのメロディをかいた楽譜がそのメロディそのものであるといえるだろうか。それもそうとは言えない理由がある。紙とインクという物質とその配置そのものを、メロディであると仮に認めたとしても、実際には楽譜に一切記載されていないがすでにその存在が認められているメロディが存在する(筆者自身の作った曲の多くはかならずしもその楽譜が残っていないので、明らかにそういったものが存在しているといえる)。
 
 このように、管理されるべき楽曲(メロディ)というものの存在は、その様子を明確に描写するのが難しく、また他の芸術作品と必ずしも同じように考えることができないことがわかる。これらをより明確にするために、音楽作品(メロディ)の存在とはどのようなものなのかということを表現できるような、メロディの存在論とでもいうべきものを考えたい。*3

*1:修復作業に関してはひとまず考えないことにしたい

*2:それがなぜ反証になっているのか、というのはそれ自体でまた別の哲学的な問題ではあると思う。が、ここではひとまず省略する

*3:おそらく作業そのものは、既存の存在論的なあるいは形而上学的な枠組みに対して、メロディがどのような位置をしめるかということを確認することが大半になるような気がしている

時間がループする世界の話1

先日、お仕事関連の方(といいつついまだ仕事はしたことがない方)に誘われて、はじめて「リアル脱出ゲーム」に参加した。正確なところでは、僕が参加したのはリアル脱出ゲームとはちょっと違っていて、「リアルタイムループゲーム」というらしい。リアル脱出ゲームも参加したことがないのに最初から派生作品をとも思ったが、かなり楽しめた。

 リアル脱出ゲームというのは、ある会場にあつまった参加者が色々なゲームをクリアしていくことでその場所から脱出する、という行程を楽しむものだが、今回参加した
「アイドルは100万回死ぬ」
というゲームの内容は、十回のタイムループ(ある一定時間で時間が巻き戻る)の中で毎回死んでしまうとあるアイドルを助けることができればクリアというものだった。内容にあまり触れすぎるとネタバレになるので、ひとまずは以下で概要を確認してもらいたい。

realdgame.jp



さて、このブログでも何度か、とりあげている「タイムトラベル」もののストーリーなわけであるが、この設定からSFものミステリ好きであればおそらく

西澤保彦『七回死んだ男』

を思い出すだろう。

こちらに関しても内容のネタバレは避けなければならないので、この手のタイムループものの構造そのものについていくつか考えることにしたい。

映画『君の名は。』に関する同様の考察はこち

 

shoyamamoto.hatenablog.com


 記憶をひきついだまま、時間が逆戻りし何分間か前に戻る、という条件設定だが、これはいくつか整理しなければならない点がある。まず何分間か前にもどる、と自分が確認できている以上「記憶」あるいは「意識」は元に戻るわけではなく、もともとの時間の流れのときにもっていたものを引き継ぐことになる。つまり何度繰り返していても、我々の意識だけは繰り返すことなく「ひとつ」のままだ。脱出ゲームでは当然、我々の身体も数分前とか数時間前とかに戻ることはできないから、意識とともに身体も引き継ぐことになるが、映像作品や小説などでは記憶だけがループする場合もある。たとえば『リプレイ』という小説では、ある年齢になると、かならず何十年か若い時代に記憶だけがもどり、また同じ地点から人生を繰り返すという設定が持ち込まれている(もちろん前世の記憶があるので、まったく同じ人生にはならず、それを利用してお金儲けをしたり、と色々なことが考えられるし、実際に作中でもそのようなことが行われる)。
 身体がループしない場合は、このループには必然的に肉体的死というゴールがあることになるが、そうでない場合、このループには終わりがないかもしれない。実際にいくつかの作品では、最初はそのループを喜んでいたが永遠に終わることのないループに気づき、最終的にはそのループから抜け出すことが目的となっている。
 もう一ついえば、そもそも記憶も繰り返しているという作品を想定することもできる。そもそも、上記のような場合でも自分とそのループを繰り返していることを自覚している人以外は、記憶や意識も繰り返していることになるが、そのような繰り返しに気づいている人がひとりもいなかった場合、どうなるだろうか。我々は実はすでに同じ時間を何回も繰り返している可能性はある。このように考えることは少なくとも論理的にはなんの不合理もない。(というか時空間に一定の流れがあると考えるほうがむしろ不自然だ、という人も多いだろう)我々はそれに気づく手立てはない
 しかしそのような状態を考えることは、少なくともタイムループという現象の内容を理解することにはあまり役に立たないように思える。面白そうなのはやはり、

「自分だけ、あるいは自分と特定の誰かだけがある一定の時間を意識や記憶だけを保ったまま繰り返している」

というタイプのものである。今後も使うかもしれないのでこれを「リプレイ型タイムループ」と名付けておく。

 タイムトラベルに関しては、これまでもなんども書いたように「パラドックス」との関係が不可避となる。その中でも最も有名なものが「親殺しのパラドックス」だ。身体ごと移動するタイプのタイムトラベルでは、たとえば自分が生まれる前の時代に戻って、自分の親を過去で殺してしまうということが物理的には可能そうだが、そうすると自分は生まれなくなってしまい、親を殺す存在がいなくなるので殺人は成立しなくなる、という矛盾した状況が生まれる。さて、このようなあまり気分のよくない例を持ち出さなくても、例えば次のようなパターンが考えられる。

例1
最近近くで火事がおこった。どうやら放火らしい。数日前、火事よりも前にタイムループしてもどった自分は警察に連絡し、火事がおこることになる家の付近で不審な人影をみたことを伝えた。その結果、警備がされるようになり、放火犯は犯行に及ぶことができなった。そして火事は起きなかった。

この場合、自分が「火事がおこった」という情報をいったい何からしったことになるのだろうか。もちろん、前回のループの記憶である。自分だけが記憶を持っているのだから、それ自体は何もパラドックスはないように見える。しかし考えてみるとこれは少しおかしい。なぜなら、我々はさきほどの親殺しのパラドックスパラドックスであると感じたはずだからだ。

AがBの発生に影響をあたえる、Bが(Aより前におこった)Cの発生に影響を与える。Cの影響でAがおこらないことになり、Aがおこらないので、Bが発生しないということだ。

我々がこれを何か矛盾したものであるととらえる最大の原因は、最初にAがおこりそれによってBがおこったという「オリジナル」の歴史があると思っていることである。このオリジナルに対して、それぞれ変更された別の歴史が発生し、その変更されたふたつめの歴史ではAの発生が未来をしった干渉者の手によって(いわば未来から)阻止されることになる。しかし、これをCという地点からスタートした歴史としてみれば、実は何も問題はないのである。

 さて、このリプレイ型タイムループの場合、身体ではなく、記憶や意識といった「情報」が未来から過去に影響を与えることになる。物理的な因果関係が、通常過去から未来への時間的な順序のルールから絶対に逃れられないのに対して、情報はその限りではないということが前提とされている。
 ここでもうひとつ問題を考えてみよう。

例2
ある日ポストに入っていた手紙の封をあけるとそこにはタイムマシンの作り方が書いてあった。タイムマシンに興味をもっていた科学者の私は、そこに書かれているいままでみたこともない斬新な理論や技術の数々がどうやら正しそうだと直感し、そこから10年の歳月をかけて、理論を解読し、必要な部品をつくりようやくタイムマシンを完成させた。私は完成したタイムマシンにのり、10年前の我が家を訪れ、ポストにこの10年の研究の成果を記した手紙を投函した。

この例において、問題になるのは、果たして「最初にタイムマシンの理論を考えたのは誰なのだろうか」ということである。私はタイムマシンをある手紙にのっとって開発し、その理論を完成させた。しかし実はその手紙をかいたのは、その理論を完成させた未来の自分だったのである。藤子.F.不二雄の短編などでも時折みられるこのような状況だが、これはパラドックスが発生しているといえるのか微妙な問題である。パラドックスとはふたつの状況がどちらでも矛盾するのだが、この場合は特に矛盾が発生しているわけではない。しかし何か奇妙な感じがする。
 それはやはり「物事にははじまりがあり、それが原因となって他のできごとがおこる」という前提を我々がもっているからだろう。この例で言えば最初にタイムマシンの原理を考える、というスタートがあってはじめてタイムマシンの理論が完成するという結果があるはず、ということである。しかしここではその順序が必ずしも守られているとはいえない。これについてもいくつか説明するための方法はあると思うが、またの機会にするとともに、ここで実際にどのようなことが起こっているといえるのか、もう少々議論してみたいところである。

なぜ浦島太郎は玉手箱をあけて歳をとらなければならなかったのか?

  浦島太郎というおとぎ話は、日本人なら大抵の人が知っているし、その話自体もそうだが、他の多くの話でも引用されることから物語のひとつの典型として認知されているように思う。一文で言えば、助けた亀に連れられて竜宮城にいった浦島太郎がしばらくそこで楽しく滞在して地上に戻ったら数百年が経っておりさらに玉手箱をあけたら年寄りの姿になってしまった、という話である。一文にまとめようと思って、まとめたわけでもなく実際にこれ以上ディテールを語るのは難しいようにも思う。
 そしておそらくかなり多くの人が思うこととして、なぜ浦島太郎は不幸にならなければならなかったのか、という問題がある。(数百年後の未来にきて、さらに老齢になってしまったことは不幸ではない、という人もいるだろうがそれはひとまず置いておこう)。
 浦島太郎は亀を助けるという「善いこと」をした。しかしその結果、最終的には「不幸」になってしまった。これはなにか釈然としないところがある。
 日本の古来からの文学作品、あるいはおとぎ話のようなものであっても、それらには仏教的な考えが前提にされており、その考えのなかでも現在でももっとも有名なもののひとつが「因果応報」というものである。これは「善いことをすればよいことが、悪いことをすれば悪いことが、その人にかえってくる」という考え方だ。浦島太郎の話がどうにも気持ち悪いのはこの「因果応報」にそっていない、つまり善いことをしたのに悪いことが起こっているということに由来するように思う。
 ところが、いくつかの文献によると、この浦島太郎と話はまさに「因果応報」を描いたものであるという。というのも、浦島太郎は亀に連れられていった竜宮城で短絡的な快楽におぼれた、つまり毎日仕事もせずだらけ楽で快適な生活を送ってしまった、それは「悪いこと」であるから、その結果として「老齢になる」という不幸がめぐってきた、というのである。そしてさらにおそらくこのような見方が前提しているのは亀を助けたという「善いこと」が、竜宮城での快適な生活という「良いこと」につながっている、という別の形での「因果応報」だろう。このように考えると、「因果応報」の形は崩れていないことになる。

 さて、では私たちがこの浦島太郎の話そのものに感じた微妙な感覚、釈然としない感覚はなんなのだろうか。これには二つの解釈があるように思う。

 一つ目の問題は、上記でみたように「亀を助ける」→「竜宮城で楽しむ」→「年をとる」という3段階でみれば、問題がない「因果応報」の関係を「亀を助ける」→「年をとる」という最初の原因と、最終的な結果だけで見てしまったことにあるように思う。原因と結果の問題に関して、このように途中のものをとばして考えてしまうことは非常に危険である。それらは「論理的」には原因と結果の関係になっている。つまりAがおこったのでBがおこる、またBがおこったのでCがおこる、よってはAがおこることによってCがおこる、というふうに考えるのは論理的には正しい。*1しかしながら、我々がそれを、つまりAからいきなりCにいくことを「自然」な話の流れであると思えるかどうかはわからない。例えば「今日は天気が悪そうだ」→「天気が悪くて気圧が低いと頭痛がおこるから頭痛薬を飲んだ方が良い」→「頭痛薬は胃に悪いから、胃薬も飲んだ方がいい」というのは正しいとしても「今日は天気が悪いから、胃薬をのんだほうがいい」と言われたら、なんのことかよくわからないだろう。
 しかしそれでもやはり全体で見れば因果が崩れているといえなくもないのでもう一つ考えてみよう
。一つ目ともリンクするのだが因果ではなく因果応報に関するもう一つの誤解である。上記で意図してかいていたのだが、「善いこと」と「良いこと」は必ずしも同じではない。つまり「善いこと」をしたことで、「良いこと」がおこるのはともかくとしても、「良いこと」から「良いこと」がおこるわけではないのである。誤解を覚悟でいえばこの話において「善い」というのは「他者に対して、よいことをすること」であり「良い」は「自分にとってよいこと」なのだ。だから、亀を助けるという「善いこと」をした浦島太郎には竜宮城での生活という「良いこと」が待っていた。しかしその生活は「良いこと」であって「善いこと」ではなかったから、その結果として何がおこってもおかしくないのである。因果応報は「良いこと」の結果に何があるか、ということに関してはとくに何も言っていない。
 つまり浦島太郎が玉手箱をもらったことに意味や理由などなくてもまったく問題ないのだ。




*1:注意深い方は気づくかもしれないが、「必然的に」正しいかどうかはまったくの別問題である

批判という言葉の誤用から、ちょっとだけ。

批判、という言葉の扱いが問題になっている。

今井絵理子さんが言うところの「批判なき選挙、政治」というのがまず問題発言ではないか、というところから話がはじまっているようだ。

「批判」というのは、本来の意味は「いろいろな物事を、色々と詳しくしらべたり、議論したりして、判断すること」なので、この意味で「批判なき政治」というと、「政治のその内容について何もしらべたり、議論しないまま、決めちゃいましょう」ということになってしまうので、これはまずい。民主的な政治であれば、とうぜん多くの人が色々な意見を持っているのだから、議論は絶対に必要だし、そもそもたとえば君主制の王様であっても自分の政治を省みて判断することはしているのだから(これを自己批判という)、どんな場合でも批判のない政治はありえない。

この人の言いたいことはおそらく

anond.hatelabo.jp

このブログで言われている通りだろう(言い方はかなりひどいけれど)

つまり、今井絵理子さんのいう「批判」という言葉の意味は「相手を言葉で攻撃すること」というようなイメージなのだろう。
実際この間違った「批判」という言葉の使われ方は蔓延していて、Yahoo!で「批判」を検索すると最初のページに出てくる多くは芸能ニュースなどで、誰々が誰々を「批判して」、炎上したとか、それを後に謝罪したとか、そんなものがほとんどだ。これはすべてこの意味においては「批判」という言葉を誤用している。

 まあこれだけの人が誤用しているのなら、ある意味ではもはや問題なくて、そういうものだと受け止めて聴いておけばいいだけの話である。
 しかしたとえば音楽など人の前にでることをやっていて、もう一つの実感として、本当に他者に「批判されること」(たとえば作品の出来について、否定的な意見をいわれることなど)を極端に嫌がる人がそれなりの人数いる。いい評価をうけなかったとして、それに対してあまりいい気持ちにならないのは当たり前のことだ(自分だってそりゃそうだ)。しかし相手がそのような意見を持つことを拒否することは本来はできないはずである。ちなみにこういう行為をふつう「批評」という。批評さえ嫌がる、批判されることそのものを良しとしない、という人たちがたしかにいて、そういったことがが当たり前になったことによって(つまり批判や批評すらしてはいけない世の中になることによって)、このような言葉の誤用がでてきたのだとすれば、少しいろいろと考え直してみる機会なのかもしれない。

アイドルバンドセット問題

 アイドルがたとえばライブハウスで数組共演する時、普通はカラオケ音源を流して、歌うことになる(歌も流している人たちもいるけれど)。バンドなどでも「同期」といわれる音源をつかって、演奏している人間だけでは足りない楽器の音を流すことはあるけれど、基本的にすべてをカラオケにすることはほとんどないから、これもバンドとアイドルのライブハウスでの大きな違いになっている。(機材の問題がないから、アイドルのライブでは各出演者のステージとステージの間の転換時間がほとんどなく、良くも悪くもかなりスピーディな感じがする、など)。まあつまりアイドルにせよシンガーソングライターにせよバンドにせよ、ライブハウスでの演奏の仕方はおおきくわけてこのカラオケか生演奏(生バンド)バンドがあるわけである。

 ところで、カラオケと生バンドどちらがライブが音楽的によくなる可能性があるかといえば、それは生バンドだろう。音楽的に、という表現が雑すぎることを承知でかいているのだけれど、ライブという文字どおりライブなので、日によっていろいろな状況がある。気温、湿度、演者の体調、お客さんの反応、いろいろあってそれに少なからず対応してパフォーマンスしようとすると、演奏はその都度少しずつかわることになる。カラオケ音源では、当然あるものを使うしかないので、その変化を演奏中に出すことは不可能だ。*1

 とまあ、そんなことは大体みんなわかっていて、アイドルでも、ステージが大きくなったり、しっかりとそれに見合う予算がついてきたり、あるいは音楽的な志が高かったりすると、生バンドセットで演奏することになる。
 ところが、これが必ずしもよくなるわけではない。まずアイドルのカラオケというのは、(少なくとも僕が関わっているものは)プロの演奏家が時間をかけてつくっているものなので、演奏に関してはかなり高度なことをやっていることが多い。それに対して、ライブというのは当然その場でのミスもあれば、組み合わせによる微妙なズレもある。実際にはそれ自体はさほど大きな問題ではない。正しさよりも上位互換なミスもあるし、ズレが気持ち良いバンドなんてほとんど全部のバンドだ(ぴったりあってるというのはそもそもよくわからない概念なので)。問題は当たり前だけれど、そこにどうしてもクオリティの差が出てくるということだ。
 またライブハウスの音響面での問題、規模感などの問題もある。アイドルを観に来る人のほとんどは(たぶん)アイドル本人を観に来るだろうから、そうなるともっとも大事になるのは歌とダンスだ。これらを生かせない演奏であれば、それはかなり本末転倒なのだけれど、実際そういうことは頻繁におこってしまう。たとえば先日フィロソフィーのダンスがイベントではじめて「オール・ウィ・ニード・イズ・ラブストーリー」という曲を生バンドでやったのだけれど、正直かなり微妙だった。自分たちが作った曲なのでなおさらなのかもしれないけれど、このくらいの規模感ではバンドセットは難しいといわざるをえない出来だったので、なんでもやればいいってもんではないこともよくわかってしまった。(やらなきゃわからないというのはプロとして言い訳だな、とも痛感)。先日も別のグループで正直これはバンドセットでやらなくていいな、と思うシーンがあった。なんせカラオケのときはまったく気にならなかったが、普通にきいていて歌が聞こえなかったのだ。論外といってもいいかもしれない。

 フィロソフィーのダンスは今、歌とダンスがものすごいレベルに達してきているので、正直それだけでもバンドファンにだって、自信をもってライブを見てもらえると思う。(ついでにいうと、最近はMCもかなり良い感じになってきた)
 すべてを生演奏することにこだわらなくても、例えばNegiccoのホーンだけ入ったライブセットも素晴らしかったし、でんぱ組.incの代々木体育館以降のでんでんバンドの演奏は生バンドならではクオリティがあって最高だったり、とアイドルのバンドセットにもいろいろある。BABYMETALはもはや、神バンドの存在無くしてはありえないだろう。おやホロのアヒトイナザワドラムをまだ未見なのはかなり悔しい。
 基本的にバンドセットのほうが、よくなることは間違い無いのだから、バンドセットでマイナスになる状況なら、普通にカラオケで良い歌唱とダンス。それでも最高のライブは作れると思います、アイドル運営のみなさま。

*1:カラオケでもグループによっては、パラ音源あるいはステム音源といって、ドラムやベース、ギターなどのそれぞれの楽器を別々にデータとして出していれば、ライブ中にPA(音響担当)が操作することによって例えばギターの音量をあげたり、エフェクトをかけたりすることはできる