読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

2016/11/20のフィロソフィーのダンス

フィロソフィーのダンスの1stワンマンライブが終了、そして23日には初の流通盤CDである1st album「ファンキー・バット・シック」が発売される。Twitterなどでは繰り返し書いている通り、フィロソフィーのダンスとは結成前のオーディションから関わり、今も全曲の歌詞を担当し、曲もかいたり、レコーディングエンジニアをやったりと、多岐にわたる内容で実際に制作側として動いている。まあしかし、制作の話(歌詞の内容がどうとか)というのは別に今ここで書くようなことではないし、それはきっともっと先の機会に(少なくともCDが出た後で)するチャンスもあるだろうから、今日は別の話をしたい。

はじめてのワンマンライブの2016/11/20に何を思ったか、ということ。

上記のとおり、オーディションから関わってきて、レコーディングのときやライブのときにメンバーと話すことも多い。4人のメンバーにとっては、作詞家であるというよりもおそらくミュージシャン(4人のことはそういっても問題ないと思う)の先輩という感じもあるのだろう。まあ実際にそうだし、だからよいアドバイスができるということは実際にはほとんどないように思うのだけれど、それでもまあなんとなくこうだったよということはできたり、楽しかったことを話すことくらいはできたりする。でも、悩みというのはどこまでいっても個人的なものだ。
 本人たちがTwitterやブログでも書いているけれど、四人は常に自分のアイデンティティを模索している。グループ内でも、グループ外でも。自分がグループで何ができるのかということ、そもそもアイドルとして何が魅力なのかということ、それを考える、悩む、ということが常に念頭にあるであろうことを1年半、身近な人間として意識しないことはなかったように思う。もしかしたら、その中で何かためになることがいえたのかもしれないし、まあぜんぜん関係ないことをただ話したりしていたようにも思う。
 ただ、いずれにしても、今悩みつつも4人が自分のやることを自分でしっかり決めているからこその2016/11/20、1stワンマンライブがあった。自分たちの大事にすることを自分たちで今決めることができている。

だからこそ、マリリちゃんが、最初のライブのリハでいったアドバイスをそのときからちゃんとライブで意識し続けていることとか(もう、むしろ無意識にできているんだろうけれど笑)、あんぬが自分できめたアイドルとしてのルールを楽屋裏で僕と話すときでさえちゃんと守ろうとしていることとか、おとはすに「話や文が面白いからはてなブログで書いた方が良いんじゃない?」といったらいまだにそれで続けていることとか、ハルちゃんが僕も信じている彼女の歌の魅力をまたさらに信じようとしていることか、どれも嬉しい。
そしてそれを、繰り返しになるけれどどれも彼女たちが自分たちの意思できめて、進んでいっているのがとても心強い。
そんな2016/11/20

音楽作品と著作権とほんの少し印税の哲学(試論)

 

1:動機と構成

 

1.1時間を通じて存在する対象の存在論、または認識に関する問題が元々の研究課題であったが、音楽の知覚はその中でも興味深いものであると考えた。例えばそれが単なる物理的な音であるとして、我々が知覚するのはただ波の一部であってそれは持続しているとはいえないかもしれない。しかし我々はある音を聴いている、ないしはある音楽を聴いているということを直観的に認めている。またそれら音楽作品の同一性についても問題になるといえるだろう

1.2上記の存在論的な議論が、実際の音楽の理解と、たとえば現在の音楽の市場におけるルールや考え方とどのようにリンクしているのかについて、当事者として関心があった。音楽作品の存在論を理解しないままで、例えば音楽の著作権のようなものは考えることができないだろう。現行の著作権法と、業界の慣例も含めて考えてみたい。

 1.3 よって本稿ではまず音楽作品の存在論についてのいくつかの立場を現在の分析美学を中心とした議論から検討する。その後、自身の音楽作品の存在論(集合論的な存在論)を提示し、それらを用いることで現在の音楽作品、特にポピュラー音楽の音楽作品がどのように定義づけられて、それらに関する権利の問題などが説明されるかということを議論したい。

 

2:音楽の存在論

 

2.1音楽の存在論というと、非常に範囲の広いものとなるが、ここで考えるのは「音楽作品」の存在論である。なぜ音楽作品の存在論が問題になるかということは、その他の芸術作品との比較が良い例となるだろう。例えば絵画や彫刻などを考えてみれば、特定の作品はまさにそれを目の前にして指差せば、それが同定されるし、基本的にはそれは一つしかない。(写真のような作品はもしかしたら同じデータをもって同じ作品といえるかもしれないが、それにしても同様のことがいえるだろう)しかし音楽作品は、同じように考えることは出来ない。ベートーベン作曲『ピアノソナタ悲愴』という作品は、通常の意味では一つの作品であるいえるが、世界中のいたるところでそれは演奏されているし、無数の録音が存在する。そのどれもがある意味でベートーベン作曲『ピアノソナタ悲愴』である。また時間的な問題でいえば、絵画はあきらかにある時点において存在するものだが、一方である時点において現れている音楽がまさに例えば『ピアノソナタ悲愴』であるということができるだろうか。演奏を聴いているときに、ある時点だけではどの作品が演奏されているかわからないことがあるだろう。

2.2何人かの哲学者たちの議論を見ながら、音楽作品の存在論を簡単に見ていきたい。音楽作品に対する立場は、哲学史上の存在論的な議論(例えば普遍論争)のように様々なものがあるが、ここではそのいくつかを見てみたい。

 

2.2.1 ロマン・インガルデンの志向説

ロマン・インガルデンによれば音楽作品は「志向的存在(intentional existent)」である。これは音楽作品を単に実在的な対象と見ることや、観念的な対象と見ることとは隔たりがある。作品は演奏とは異なる意味で時間性をもち、またそれによって単に理念的な対象であることも拒否される。

 

「つまり、演奏の一部を構成する音響的な生産物と聴覚的経験の所与とは根本的に異なっているということである。…音響的生産物を少なからず持続する音の連続体として同一性をもつが、経験的所与は絶えず更新されるものである。…これらは相関関係にあるものの、音響的生産物は少なからず経験に対して「超越的」であるといえるだろう。よって音楽作品の演奏とは、まったく意識経験の一部ではなく心理的なものではない。それは作品そのものも同様である。…構造として、意識的経験の超越としての音響的生産物(演奏)、さらにその超越としての作品、という図が見えてくることになる。」(Ingarden(1966)、邦訳pp.29-34

 

また音楽作品の存在の仕方についてのべたIngarden(1966)の第四章をまとめると以下のようにいえるだろう。

 

「音響や、演奏が空間的にかつ時間的に個別化された対象であるのに対して、作品は超個別的、超時間的な構造をもっている。その個別性は、単に質的なものであるといえるだろう。…音楽作品は、ある実在的対象(音響、聴覚的経験の対象)に起源を持ち、別の一連の実在的対象によって連続した存在を基礎付けられているような、純粋に志向的な対象であるといえる。これはもちろん作品が何かしらかの、主観的なものであるということを主張するわけではない。音楽作品は、作曲者の特定の創造的で心身相関的行為によりおこるものである。楽譜は(記譜できないものの存在も考えて)、完全に作品を表現しているとはいえない。…一方で、音楽作品は、これまでの評価からもわかるように決して意識経験と同一ではない。しかしたしかに音楽作品は存在するという見方をとるならば、我々は以下のような思考の筋道を通る必要がある。つまり、音楽作品は、自立的に存在する対象が別に存在する限りにおいて、他律的に存在するものなのである。」(Ingarden(1966)第四章)

 

このような志向的な存在である音楽作品に対しては、視聴する我々は間主観的に到達することが出来るといえるだろう。このように規定される音楽作品の同一性の問題については、明確な回答を与えるとはいえないだろう。この意味では、音楽作品に関しては演奏とは区別される一方で、我々の志向的な対象であるから、その同一性は間主観性によってのみ保障されることになり、厳密な意味での原曲という概念は存在しなくなるのではないだろうか。またそもそも、演奏と作品との間の関係がどのようなものになるのかということが説明されえないといえるだろう。

 

   2.2.2 ジュリアン・ドッドのタイプ/トークン理論

より最近の議論として検討に値するのはジュリアン・ドッド(2007)などの「タイプ/トークン理論」である。この説によれば、通常我々が知覚するのはトークンとしてのsound-sequence-eventであって、それらのタイプが音楽作品といえる、ということになる。

 

「タイプ/トークン理論によると音楽作品はそのトークンがsound-sequence-eventであるような標準タイプである。…その反対者と対照をなして、タイプ/トークン理論は音楽作品の反復性をわかりやすく説明し、音楽作品がその全体として聴かれうることを許容する。」

 

これは、2.2.1で検討された立場に対して、より実在論的な立場であるといえるだろう。ドッド自身は、実際それらの立場をanti-realismであるとしており、これはタイプ/トークンに関する実在論論争とも関係のある問題であるといえる。ドッド(2007)においては、音楽に限らないタイプ/トークン理論そのものの存在論的な議論も行われており、実際それらを受け入れることでsound-sequent-eventのタイプとしての音楽作品(のようなもの)が存在するということは自然に帰結するだろう。次項で検討するが、問題はこのタイプが、実際に我々が普通音楽作品と呼んでいるものと直観的に合致するかという点であるように思える。ドッドの議論によれば、このようなタイプが存在することは確かに正当化されるが、それが直接的に音楽作品の存在を認めることには繋がらないといえるかもしれない。

 

2.2.3 ネルソン・グッドマンの唯名論

 グッドマン自身が存在論的唯名論を強く主張することから、彼の美学に関する著述もまたその唯名論の影響を強くうけているといえる。彼によれば、音楽作品は演奏のような具体的な個物のcollection(集合)である。そしてこれらの演奏されているものの同一性は実際に、楽譜によって保障されているものであるとされる。つまり、特定の演奏などの集まりが作品と呼ばれるものであると同時に、その集まりの内包的な定義が「ある楽譜を再現していること、ある楽譜のinstance実例であること」というのがグッドマンの定義するような、音楽作品の特徴となる。よって彼によれば以下のような強い主張も認められることになる。

 

 「作品の正確な実例として要求されるのはただ楽譜の完璧な追従であるため、まったくミスはないがひどく愚かな演奏もその作品の実例となるし一方ですばらしい演奏であっても一つのミスがあればそれは作品の実例とはいえない」

 

 このような強い主張は我々が音楽作品に対して一般的に持っている直観とは大きく異なるものであるといえよう。ある作品が演奏の集合であり、その内包的定義が楽譜であって、作品というのは唯名論的な意味でのみ存在するというグッドマンの議論は強いコミットメントを必要とするものであると考えることができる。

2.3 これらの中で、音楽の哲学、分析美学などの研究者のなかで最も認めるものが多いのはタイプ説であろう。特にクラシック音楽に関して、このように考えることはそれらの表象に関する我々の日常的な直観に合致する。しかし例えばクラシックにおいても、楽譜というのは音楽作品をなしているものであるように思える(そのように主張する人がいないとはいえないだろう)が、楽譜がタイプであることはもちろん作品のトークンであるということはいえないだろう。それらは明らかに、演奏というトークンとはその立場が異なるものである。

また、タイプとしての音楽作品はドッドによれば、「抽象的」「非構造的」「不変」なものである。しかしながら、ポピュラー音楽の音楽作品は少なくとも不変な対象であるとは思えない。それは常に変化していくものであって、作曲者の他に「編曲」という立場が認められていることからもそのことがわかるだろう。作曲者の手を離れた段階でもまだ楽曲が固定されていないということができる。タイプとしての音楽作品は、このような事実を説明することが出来るだろうか。

2.4 ここでむしろ、音楽作品とは音楽的対象のゆるやかな「集合」であるという考えを用いたい。これはグッドマンのものと近いが、彼がいうような集合よりも、その幅を広げているものであるといえるだろう。

 

特定の音楽作品={演奏1,2…、レコード1,2…、楽譜1,2…、その他}

 

例えばこのような集合について、我々は同一性という問題を扱う必要はないように思われる。なぜなら同一性問題とはつねに二項(多項)関係的な問題であるが、この集合と比較するべきは、同一のレベルの集合だけであってこれらの間の相違は明らかだからである。おそらくここで、このような集合はいかなる存在者であるかという問題は生じるだろうが、これに関しては数学の哲学で扱われている通りの答えしか提示することは出来ないだろう。しかし少なくとも我々はそれを音楽の活動の枠組みの中で使用することは可能であるように思える。これはかなりグッドマンのような唯名論的な見解に結びつけて考えることができる(場合によってはそれに含まれるといえるだろう)。ドッドは集合論的見解に関して、「様相に関する問題」を提示している。ある作品に関して、その表れ(演奏など)は本質的な要素ではないが、一方でそれらはある可能世界においておこりえたものを含むものである。ところが集合に関しては、どんな可能世界においても、実際の要素よりもその集合の要素が多かったり少なかったりすることはない。よって作品は集合ではありえないというのがドッドの議論である。まず、今問題にしている集合論的見解がドッドの批判するような形と異なっており、その理由が単にそれがsound-sequence-eventの集合ではないということである、ということには注意したい。この問題は一つにはルイスの様相対応者理論を用いることで応答できるだろう。そして、むしろ集合に関する唯名論的な立場に立てば、それはもはや同一の名前をもった集合の時間的な同一性の問題になる。この点に関しては、それほど問題にならないだろう。その要素を具体的に列挙して、比較することはこの場合(例えば数学でのそれに比べて)それほど難しいことではないからである。

 

3:実際の音楽作品

 

3.1上記のように、音楽作品の存在論について述べてきたが、実際に現在の音楽作品のあり方を以上のような観点から眺めてみることは、最も意味のあることであろう。そうでなければ、いくらそれがライバル理論の問題点をカバーしているとしても音楽作品の存在論として有効なものであるとはいえないからである。とくに音楽家として、作品の製作そのものを生業とする人々にとって妥当なものである必要があると思われる。さて、クラシック作品に関しては、タイプ/トークン理論はかなりよい示唆を与えているように思われる。実際それらは現在ありえる様々な演奏のタイプとして存在することで元々の作曲者の立場が保存され、志向説で問題になるような原曲と演奏との関係が見えてくる。

3.2むしろ考えてみたいのは現代の音楽特に日本におけるポピュラー音楽の存在論である。これらは、実際には音楽作品に関する集合論によってより正確に表すことが出来るように思われる。

 音楽作品というものの存在が問題になる場を考えてみると、現代ではほとんどそれは権利の主張においてであると思われる。ピアノで「ドミソ」と弾いて、このような行為が音楽作品だと主張しても、それはほとんど認められない(実際にはこれは十分sound-sequent-eventのタイプであると思われるが)。ところが現代の音楽家たちは「著作権」(及びそれに類する諸権利)を持つとして、それによって作品を創作したことの権利をもち、また一部で収入を得ていると思われている。著作権法において著作物は「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」として定義されている。ここで著作者に認められているのはそれらのオリジナルに対する権利であって具体的なものでは必ずしもない。またどの程度のものが著作物であるのか、という点に関して明確な基準は存在しない*1そこで通常はある契約ないしは慣例があって、例えば現代の基本的な音楽の発信手段のひとつであるCDが販売されるとその6%が作曲者や音楽出版社などに配分される。しかし音楽作品に対して所有しているという権利を持つというのはどういうことだろうか。絵画や文章であったら、そのオリジナルを持つこと(そしてそれを作成したこと)がそれにあたるだろうが、例えばタイプとしての音楽作品にしても、集合にしてもそれに対して権利を持つということは非常に不可解なことであるように思われる。ところで、ゆるやかな集合による音楽作品の定義づけは音楽の著作権という現在の捉え方、あるいは印税の支払われるシステムとは相性がよくないように見える*2。ところが実はそんなことはまったくない。つまりむしろ言えることは、著作といわれるものは「作品」ではない、ということなのである。むしろ音楽作品といわれるものは、その著作物を使用することによって、作品たらしめられるものなのである。となると、当然ではそれについての存在論が次に必要になることは明らかだ。しかしながら逆説的に、これらは現在著作権法やあるいは音楽著作物に関する規定によって、規範的に定義されているし、むしろそうとしか定義できないものなのである。あるいは現状の著作物という概念の存在論にたいして問題があると考えるのであればこのような規範的な定義の側を修正していくことになる。であるから例えば音楽家の作品概念、あるいは作品意識というものに照らし合わせて、著作物の存在論、あるいはそこから規定されるさまざまなルールや慣習を判断することはできない、ということになる。*3。規範的ないくつかの概念によって、例えば印税をもらっているとすれば、それは創作の特異性ではなく、社会の中での認められ方であって、それはお金というものの本来のあり方とも矛盾しない。

 

 4:まとめ

 

 音楽作品を「集合」として考えることで、具体的な音楽作品の権利などの取り扱いについて新たな一つの指針を得ることができるように思われる。音楽家はその外延に対してアプローチすることが可能だが、それは著作そのものとは別に考える必要がある。

 そしてまた、ここでは扱うことができなかったが、実際に音楽を認識するということに対しても、その認識の仕方に関して音楽作品概念自体の理解は重要であるように思われる。集合論的な理論によれば、我々が認識するのはその要素であるということができる。そしてその際考えればいいのは、「音楽作品」という抽象的なイメージが伴うものではなく、物理的な音であるとか楽譜であるとかといった具体的な対象(物理的な対象)である。これらに対しては、例えば従来の音に関する物理学的な研究や、形而上学的な研究を行っていけばよいといえる。

 

【文献】

Dodd, J., (2007), Works of Music: An Essay in OntologyOxford University Press.

Goodman, N., (1968), Languages of Art, references are to the second edition (1976), Hackett

Ingarden, R., (1966), Utwór muzyczny i sprawa jego tożsamości, Wydawnictwo, Warszawa, [邦訳]『音楽作品とその同一性の問題』、2000年、安川昱訳、関西大学出版部

Lewis, D., (1986), On the Plurality of the WorldsBlackwell

*1:判例などはある

*2:著作権そのものとしてみれば著作隣接権という考え方はあるけれど

*3:実際にこれが唯一の解決であるのかということには確かに疑問が残る。というのもこれを書いている自分自身の実感として、それでもなお著作物は自身の作品なのではないかという感覚があること、そして記述的に著作物の存在論を語ることもできるような気がやはりするからである。前者に関しては単に個人の感想であると思っても良いが、後者はより本質的な問題であって、実はそれに関して考えがないわけではないけれど、それは別に機会にしようと思う

SFとして観る『君の名は。』(ネタバレあり)

君の名は。

ストーリーとして難しい話だった、という感想があるのを聞いて驚いたのだが、これだけ多くの人が見ているのだから、アニメでも映画でも定番であるタイムリープタイムパラドックスSFものを人生で初めてみたという人もいるのだろう。それはすごいことで、衝撃の映画体験だったかもしれない。

タイムリープというのは時間跳躍のことで、突然昨日自分や何年も前の自分、あるいは未来の自分に意識が飛ぶことで、体ごと移動するタイムトラベルとは一応こういった意味で区別されている。その手のものを映画ではじめてみた人にはなんのことやらだが、「君の名は。」はタイムリープで、「バックトゥザフューチャー」はタイムトラベルだ。(ざっくりしすぎているが「名探偵コナン」は、意識ではなく身体がタイムリープしている、とも言える)

わたしが江戸時代にタイムトラベルしたといえば、今の身体と精神のまま、突然江戸時代の世界に投げ込まれることであり、また普通の意味では自分のまま江戸時代にタイムリープすることはできない(江戸時代に自分はいないから)。「君の名は。」では別時間の別人の体に意思がうつるので、この世界観では江戸時代へのタイムリープも可能である。

そして、タイムリープもの、あるいはタイムトラベルものにはもはやそれを抜きには語れないのが「タイムパラドックス」という概念だ。もっとも有名なものが「親殺しのパラドックス」というもので、簡単にいえばタイムリープタイムパラドックスで過去に戻り自分を産む前に自分の親を殺すことはできるか、というものである。単純に物理的に考えれば可能に思えるが、もし出来たとすると今そこにいる自分はいったい何から生まれたことになるのだろうか、という問題である。
パラドックスという言葉を厳密に定義するのは難しいが、このようにどのように考えても矛盾が出てしまうので、これをタイムパラドックスと呼んでおり、他にも様々なパターンが考えられる。

君の名は。』でも、三葉とタキによる「世界の改変」(SFではよくこの用語が使われるが、つまり元々の歴史がタイムトラベルしてきた人物やもの、その行動によって変化し、別の歴史が生まれることである。改変される前、あるいはあとのそれぞれの歴史のことを「世界線」ということもある)によって、災害による人的被害がなかった世界に歴史が書き換えられる。すると、タキ(そしてその世界線の住人)がその災害による被害を認識することができなくなるため、そもそもその被害を防ぐことができなくなるのではないか、というごく初歩的なタイムパラドックスが発生する可能性がある。
もちろん、そんなことを気にせずに楽しめばいいのだが(非現実性はそもそもの前提なので)、「難しい」と感じる人が一定数いる理由はそういった部分の説明の足りなさとあやうさにある。
 
普通、ひとはある出来事や物語(いまのところこれらの語彙に特別な意味はない)を因果の系列として捉えている。簡単にいえば、過去が現在や未来の出来事の原因になる、ということを前提とした上でものごとを理解しているはずだ、ということだ。(因果というのは原因と結果の関係のこと)
タイムパラドックスに関しては、この因果の系列が転倒することがまさにそのパラドックスの由来である、と考えることができる。それは、結果よりも時間的には後に原因が存在するということである。
これは普通の意味での因果の理解とは異なるから、当然SFに慣れている人以外は本来は「おかしい」と思うことである。

まあ、ところが実際にはタイムトラベルの概念、そして因果の転倒は概念としてはそれほど想像不可能なことではない。「バックトゥザフューチャー」などを見たことがある人などタイムトラベルもののSFを知ってる人はもちろん、「君の名は。」で初めてそれに触れた人すら最後には一応ストーリーの因果関係を理解できるはずだ。

1.災害発生

2.過去に戻る

3.災害を食い止める

4.災害はなかったことになる。

ところで、なぜこれがさほど不自然でないかといえば、それは3の時点で、1、2にいたタキは「過去」にタイムリープしているからで、実際には
3が原因となって→4という結果が起こるという因果は転倒していないからである。つまり我々のように映画をみている人という外側からみれば、因果は転倒している(ようにも見える)が物語内の世界においては何も問題はおこっていないととらえることができる。

それでもタキと一緒に糸守にいった二人などある種「神の視点」(視聴者の視点)にいられるべき存在に関しても、4において「記憶がなくなっている」ということで、因果の転倒への気づきがありえないということが考慮されている。

このような理解の前提には非常に強い二元論がある。
それは
「精神」と「身体」は少なくとも因果に関して、異なる存在論をもっているということである。(言葉が難しくなりがちだか、「存在論」を「理論」とよんでもいいし、「理屈」と考えてもほとんど問題ない。また二元論というのは今でいえば「精神」と「身体」にはそれぞれ別の理屈がはたらいていて、どちらかでもう一方を説明することは難しいというような意味で考えてもらえればよい)。

どういうことかといえば、上記の
3→4において、因果の転倒がおきていないといえるのは「身体の世界」だけの話だということである。実際にはタキの精神は未来の時点のものだ。(2016年の記憶があるから。しかしその精神が2013年の三葉の身体に入ることで、一件転倒しているかに思える因果は、あくまで身体と物理的世界の話だけを記述すれば
「2013年の三葉の身体による作用で、2013年の被害が回避された」ということになり、この文には論理的にも物理的にもなんの問題もない。そして映画をみてる我々も当然そのように最終的には理解することになる。

しかし、前述したようにこれは見かけ上の「解決」にすぎない。それは結局「精神」に関する因果の転倒を何も説明できないからだ。ここでとれる選択肢のひとつは上記の強い二元論を採用し、「精神」に関しては因果系列を認める必要はないと考えることである。
 例えば、一族で代々力をもっている場合、特別なお酒を飲んだ場合などは精神が因果の系列を転倒させることができるといった具合である。

 実はこのときに前提となっているのは、我々ができごとやその他もろもろを含めたこの「世界」を物理的な世界(身体的な世界)と捉えているということである。そしてこの身体的な世界は当然、因果の系列を正しく満たすし、その他我々のイメージしている常識と矛盾なく存在する。そして人の身体もその世界の一部として存在する。しかし「精神」はそれとはまったく別のものであり、別の存在論を満たすというふうに捉えることになる。

タイムリープ系のSFはどうしてもこの点についてはこの立場に近いものを取らざるをえない。

では、
タイムトラベルものの代表である「バックトゥザフューチャー」に関して、同様に時間軸と因果系列を考えてみよう。下地にするのはpart1,2である。(結構なネタバレになるが、実際ネタバレを読んだ後みても面白いのがこの映画のもっともすごいところのひとつ)

ざっくりまとめよう。

あらすじ
1985年現在、さえない両親や兄弟をもつ主人公マーティは、そして発明家で友人のドク。ある日、マーティはドクから「タイムマシン(デロリアン)が完成した」と告げられる。しかしドクはドクがタイムマシン開発のためにテロリストから材料をだましとったことの復讐のためテロリストに銃撃されてしまい、マーティもテロリストから逃げるためドクの作ったデロリアンにのって(ここを85-Aとする)、自分が生まれる前、そして両親が結ばれる前の30年前1955年にタイムトラベルする。しかしここで(55-Aとする)、マーティは両親の出会いを偶然邪魔してしまい、このままでは両親は結婚せず自分は生まれることもなくなってしまう。そしてタイムマシンは燃料がきれ、その燃料は1955年では手に入れることができないため1985年にももどれない。なんとか両親を結びつけることに成功したマーティは85-Aでもらったチラシをみて、55-Aで大きな落雷があったことを知り、55-Aのドクと協力してそのエネルギーを利用して1985年にかえることができた(85-B)。85-Bのドクは55-Aでマーティからもらった手紙のおかげでテロリストからの銃撃にそなえて防弾チョッキを準備できていたため助かっていた。また55-Aでのマーティの活躍によって85-Aでは冴えない感じだった両親や兄弟は85-Bではすっかり雰囲気がかわっており、家も裕福になっていた。
めでたしめでたし(ここまでがpart1)

さらに85-Bからマーティとドクはマーティの未来の家族におこる不幸をなんとかするため、2015年に向かう。ここで、その問題自体は解決するが、デロリアンを一時的に悪役のビフに奪われ、ビフはデロリアンにのり、1955年にもどりそこで1955年のビフ本人に1955年以降のギャンブルなどの結果がのった本を渡し、2015年に戻ってくる。デロリアンはマーティたちの元にもどったが、そのデロリアンにのって1985年にもどるとそこはすっかり変わり果てたビフが支配する世界になっており(85-C)、マーティの父は死亡していた。もう一度2015年に戻ったとしてもそこは85-Cの世界から続く未来にすぎないため、原因が1955年にあることをしったマーティとドクは1955にまた戻ることになる。この1955年(55-B)で、マーティとドクは未来のために本を取り返すことに奮闘する。(part2途中まで)

といった感じである。

とはいっても見たことがなければこれだけで実際に話を追うのは難しい。ただこれ以上にわかりやすい例もあまりないのでこれをつかって考えてみよう。ここでいえるのは、
55-Aでのマーティの行動は1985年に影響を与えるが、その際に世界の改変がおこり、身体と精神のどちらもが時間移動しているマーティが帰ることができる1985年は85-Bのみになっているということである。

また2015年での活動により、1955年に影響がでるため、85年がさらに改変され85-Cとなる。この改変を是正するには1955年に再度戻り、この55-B
において55年のビフから本を奪わなければならない。

実はここでも「君の名は。」と同じ存在論はいきている。それはつまり、「物理的な因果は転倒してない」ということである。身体的な、あるいは物理的世界の出来事としては(例えば誰かが成長するとか金持ちになるとか、といったこと)

55-A→85-B
55-B→85-C

という世界改変は因果の系列に反していない。(時系列順である)そして55Bで本をとりかえすことができたならば、新たに85-Dがうまれるはずだ。身体とともに精神も移動するためもし、我々がマーティと同じ視点をもつとすれば我々は時間移動をしたというよりも、別の世界線に移動している、といったほうがよいかもしれない。

ところで、公開から何万回もいわれているであろうことだが、上記の中だけでも一箇所あきらかなタイムパラドックが存在する。
それは2015から1955にいき世界を改変したはずのビフがなぜおなじ2015年に戻ってこられたのかということである。「君の名は。」においても、改変後はタキは実質的に別の世界にいることなる(災害を回避した世界)。つまり改変が行われた以上、2015年のマーティのもとにはデロリアンは帰ってこないはずなのだ。このパラドックスはおそらくこの枠組みでは解決不可能だ、というかこれは実はパラドックスではない(たんに論理的に間違っている。)しかしこのようなパラドキシカルな問題がでてくる理由はやはり前述の因果に関する二元論的問題によるだろう。劇中、すくなくとも映画をみている人間はマーティの視点(精神)から物語をとらえることになる。するとその視点に関して言えば、ビフが車に乗って帰って来る、というただ事実がそこにあるだけである(というかそう描写されている)。よって、結局は視点をどこにおくかということ、あるいは精神と身体の二元論としていえば、我々は物語の理解を身体的に、しかしただ物語をみることを精神的に行っていることになる。タイムトラベル、タイムリープに関しての多くの違和感はそこに由来しているように思われる。


実は「君の名は。」のラストで、タキが三葉に気づくのはまあ組紐が理由でいいとして、その逆に三葉がタキに気づくのはなんとなく釈然とせず、単に男の願望の表れにしか思えない、という感想をもった。
しかし、実はこれは因果の系列に関して、自分自身がこの物語をタキの視点から見ている場合にのみ現れてくる問題なのかもしれない。(実際にストーリーテリングはそのように誘導しているので仕方ないにしても)、もし視点が三葉あるいは、2013年の世界線にあったとすれば、ラストでの気づきには純粋に因果的な、あるいは必然的な理由がありえるのかもしれない。なぜなら、すくなくとも三葉は何らかの理由によって、(それが「未来」のタキであるとわかる必然性はないにしても)災害を回避する行動をとったわけでまさにその因果を説明できるような原因を「君の名」に求めることができるからである。

J-POP恋愛論 1.2「Automatic」宇多田ヒカル(1998)

1998Automatic宇多田ヒカル(作詞・作曲:宇多田ヒカル

 

 前節では男性側視点、そしてロマンティスト的な視点としての恋愛の初期的段階の現れを見たが、もう一曲女性サイドの視点も考えてみたい。以降、男性と女性との間の恋愛観の違いなどというある意味では単純すぎる、そしてある意味では深すぎる二分法について議論はしないが、恋愛の初期的段階という場面において男女という差による表現の違いがあるのは事実であるから、それをできるだけそのままの形で取り出すことを目標としたい。

 女性シンガーソングライターは、歌詞とそれを表現する人間との関係という意味において最もその距離が近い表現者であるように思われる。昨今女性シンガーソングライターの台頭は枚挙に暇がないが、彼女たちがうたう恋愛の歌詞の多くは、彼女たち自身の恋の歌なのではないか、と少なくとも我々に思わせるようなものが多い。

 どんな恋愛にもある種の初期的段階(「恋愛の初期的段階」であるかどうかは必ずしもわからないがそうであると考えたい)があり、誰もがそれぞれの初期段階をいくつも経験することになる。宇多田ヒカルはその音楽性において、あきらかに段階的でない才能を発揮し、表現したが、歌詞には15歳の恋愛の初期的段階が意識的にか無意識的にか現れているといえる。J-POPの歴史をかえたこの名曲は

 

「七回目のベルで受話器を取った君」

 

という歌詞から始まる。無論、この曲を恋愛の曲ではなく、あまり日本人の常識にあてはまらないとはいえ(宇多田ヒカルはデビュー前までアメリカ在住だったこともあり、この見方により説得力が生まれるが)友人関係の曲であると切り捨てることもできるだろうが、以下ではあくまでも恋愛の楽曲であるという考えの元で話を進めていく。

 恋愛の初期的段階においては、あらゆることがその恋愛にとって意味のあるものとして現れてくるだろう。恋をしているクラスメイトと目が合ってしまったこと、一日何回LINEをやりとりしたかということ、こういったことは当然恋愛そのものが当たり前になってくるにつれて(それはひとつの恋愛の中でもそうであるし、また年齢も含めた経験の中でもありえるだろう)、それ自体から訴えかけてくる意味というのは薄れてくる。何回目のベルで相手が受話器をとったかということを数えている、あるいはそれに意味を見いだしていること自体が主人公にとって、あるいは二人にとってこれが恋愛の重要な一場面であるということを示している。これは前述の通り、「第一の結晶作用」によってなされることと思われるが、特にこのようになんでもないことに恋愛の意味を見いだすことをここでは「小さな幸せ」と呼んでおく。

 楽曲の制作時期を考えれば、携帯電話はまだそれほど個人所有されていない、しかし可能性がない訳でもないという時代だが、おそらくここにでてくる電話というのはきっと固定電話のことだろう(続く歌詞からもそれはわかる)。もしかしたら、家族のだれかにその電話をとられてしまうかもしれないという緊張によって、ベルの回数を数えるという行為につながったのかもしれない。事実、現代では一般的に子供といわれる年齢であってもそれぞれが個人所有の携帯電話をもっており、「その電話に誰がでるのか」という問題は存在しない。しかし、かつてはそれ自体が恋愛のスタートにおけるひとつの障害(もちろん逆説的にこれ自体が楽しみにもなりうるが)であった。ある一定の時代以前の「電話」における待ち時間にはそういった要素が含まれると考えて読む必要はあるだろう。しかし、そうだとしても、電話のベルの回数に意味を見いだすということの恋愛初期段階における意義はかわらない。続くブロックでは

 

「唇から自然とこぼれおちるメロディ

でも言葉を失った瞬間が一番幸せ」

 

と展開する。なんでもないことが幸せに思える、「小さな幸せ」があるという現在の状況ゆえに、「一番幸せ」なことが何なのか、それを意識することとなる。ここが前段の電話から直接時系列的につながるとすれば、相手との会話の喜びに対して、自然とこぼれてしまうメロディが、相手がいった重要な言葉によって黙って聴かざるを得なくなった状況と考えられる。その言葉とは、これがここからさらに次の段落

 

「嫌なことがあった日も、

君にあうと全部吹っ飛んじゃうよ」

 

につながるとすれば「今から会おう」かもしれないし、あるいは「愛している」かもしれないし、そのどちらもということもあり得る。

 あるいはこの後の段落を、時系列として見なければ、この前の「唇から〜」のブロックで、この恋人たちはすでに電話をおえて、10代の恋愛への積極性を十分に発揮することで、もう直にあっているかもしれない。だとすれば、「言葉を失った瞬間」とは当然キスのことだろう。メロディを口ずさんでいた唇が奪われた瞬間が最も幸せである、というのも恋愛の初期的段階として不自然なものではない。「君にあって、嫌なことを忘れる」と認識する前に、キスの幸せが存在するという時系列的には矛盾する可能性があるこの並びの方が、ある意味では恋愛の初期的段階の要素のあらわれとしての「小さな幸せ」を表しているといえるかもしれない。

 「ラブ・ストーリーは突然に」の主人公が持っていたラブ・ストーリーへのロマンティスト的な傾倒を仮に「大きな幸せ」を求めているとしたときに、それがその構造において「突然のおわり」を内包する可能性があったように、「小さな幸せ」にもそのような段階があるのだろうか。「大きな幸せ」においては恋愛全体に波及する偶然的なこと(あるいは運命的なこと)を重要視するのに対して、「小さな幸せ」では偶然的要素も含みながら、個別の事項、それも相手や自分が自発的にしたことに対して恋愛の初期段階的な反応を見せている。「小さな幸せ」は、この主人公にとっては非常に現実的なものであるように思われる。

 「Automatic」というこの楽曲のタイトルはそのような現実的に「小さな幸せ」を目の前にした主人公の状況と、感情の動きを実に的確に表現している。直訳すれば「自動的に」となるが、これはまさに「自発性」と「偶然性」という二つの要素をどちらも含んでいるといえるだろう。「自動的に」、つまり勝手にそれは起こってしまうという意味では偶然的であるが、それが自分の感情であり、また相手とあったり話したりすることではじめて「自動的」になると考えれば、納得出来るだろう。やや踏み込むとすれば、自動的に何が起こるのだろうかという疑問がありえる。もちろん歌詞の上では

 

It's automatic

側にいるだけで その目に見つめられるだけで

ドキドキ止まらない Noとはいえない

I just can't help

 

It's automatic

抱きしめられると 君とparadiseにいるみたい

キラキラまぶしく 目をつぶるとすぐ

I feel so good

 

となっており、自動的に「ドキドキ」するなどと考えるのが自然である。しかしこれも前節と同様の考え方だが、恋愛において「自然」につまり、ある種自発的に「ドキドキ」するというのは当たり前のことである。「ドキドキ」しようと思ってドキドキするということはない。このような当たり前がえがかれているわけではないとするのであれば、ここで考えられるのは

 

①「自然に」「自発的に」ドキドキすると、「automatic」にドキドキする、は意味が異なる.

 

②「automatic」に発生するのは別のことである.

 

 

という二つである。①だと考えると、automaticであるということは、「ドキドキ」が自動的におこるという単純な構造の話ではないということになる。つまり「恋人に会う→ドキドキする」という流れが、必ず自然に発生する、ということではないということである。ではautomaticとはどのような意味なのだろうか、という答えが上記の「自発性」と「偶然性」の両要素である。このドキドキは自発的であって、自分の意思としてこの相手に対して結晶作用が起こっても良いというようなモチベーションが存在するのと同時に、それはまさに自然に偶然おこったことでもあるという二つの意味である。

 また②に関していえば、これはやや飛躍した話だが、automaticに発生するのは恋愛に関する「恋愛の初期的段階」であると考えると読めば自然につながる。恋愛に関する恋愛の初期的段階がautomaticにはじまることこそが、まさに恋愛であるというように主張されているようにも思えるし、実際にそのようなことが内包された恋愛というものをある種当たり前に主張出来るのがシンガーソングライターのリアリティであるといえるだろう。

  であれば、間違いなく「恋愛」はやっとここから始まる。と、いえるかもしれない。そして女性シンガーソングライターのほうが、そのはじまるかもしれない恋愛(恋愛に関する「恋愛の初期的段階」)に多少なりとも敏感で、さらにいえばそれそのものを恋愛の一要素として捉えているといえるかもしれない。

 

J-POP恋愛論 1.1「ラブ・ストーリーは突然に」小田和正(1991)

ラブ・ストーリーは突然に小田和正 (1991)(作詞・作曲:小田和正

 

 恋愛にははじまりがある。それはひとめぼれかもしれないし、相手からの突然の愛の告白かもしれないし、その形は多様だろう。いずれもそれは予期しないものであるから、恋なのであって、「わたしはあの人のことを好きになるだろう」というのは聞かない話ではないが、直感的に言っても後づけのものに思える。前述のようにスタンダールの恋愛論によれば、恋には7つの段階があることになるが、そこまで分析しないまでも

 

出会い

恋の始まり

恋の成熟→恋の完成

恋の終わり

 

といったルートを、色々と想像することは容易だろう。

 小田和正の大ヒット曲『ラブ・ストーリーは突然に』はタイアップドラマのイメージもあり、恋人たちの様々多様で、しかしどれもある意味で一途な恋をえがいた楽曲であるように思える。無論、そのような理想的な恋への決意の詞としてこの歌詞を読むならばハイライトは、

 

「君のためにつばさになる 君を守りつづける」

 

となるだろう。このような恋愛でありたい、またはこのような恋愛をしてみたいというのは青年期の恋愛へのあこがれとしては妥当なものであるし、誰しも恋愛ドラマや映画をみてその中でえがかれるようなすてきな恋愛(まさに「ラブ・ストーリー」)に心を動かされたことがあるだろう。では、これはそのような一途な男の恋の始まりから、決意までの歌なのだろうか。実はそうでない読みも可能である。

 まずポイントになるのはタイトルだろう。『ラブ・ストーリーは突然に』というタイトルは、実に印象的なタイトルでそこで展開されるであろうラブストーリーを聴き手に様々イメージさせるが、実際には「突然に〜」のあと何が続くのか、明らかではない。前述のとおり、これが一途な男の恋の始まりだとしたら、当然これは「ラブ・ストーリーは突然はじまる」という意味だろう。しかしながら、上記のルートの中でどの矢印であっても「突然に」発生することは不可能ではないし、おかしなことでもない。つまり「ラブ・ストーリーは突然おわる」というようにこのタイトルをよむことも不可能ではないのである。もし楽曲構成を軸として考えるのであれば、J-POPの音楽作品の中でサビで最も重要なこと、伝えたいことが表現されていると考えるのは自然なことだ。そこで最初のサビの歌詞を中心に、この曲を見直してみると、ここには異なった「ストーリー」が見えてくる。

 楽曲のサビの部分は、

 

「あの日、あの時、あの場所で、君に会えなかったら

僕等はいつまでも 見知らぬ二人のまま」

 

である。印象的なフレーズではあるが、これを単に言葉として捉えた場合、ここで言われていることは出会いの場面であればある意味でほとんど当たり前のことだ。出会うことがなかったら、知らないもの同士であるというのは恋愛に限らず普通のことだが、これをサビの歌詞にしているということは逆説的に主人公はこのような出会いを重要なものであると考えているということだろう。このような当たり前の出会いでさえも「ラブ・ストーリー」の一場面であると考えるよ、というのがある意味ではこの男の基本的なモチベーションの現れである。

 

「誰かが甘く誘う言葉に もう心揺れたりしないで

切ないけどそんなふうに心縛れない」

 

これも、もし恋人同士だとすれば「誰かが甘く誘う言葉に心揺れない」というのは、それほど言及するまでもなく当たり前のことであろう。もし自分の恋人がその程度のことで、心揺れる人であったら(あるいはそんな意味内容のことで、「切ないけど心縛れない」と思い悩むような関係であったら)、恋人としてうまくやっていくのは難しいと思うかもしれない。

 そこで実は、ここで描かれているのは非常に理想的かつロマンティスト的な恋の最初期段階なのではないだろうか、という読みが成立する。主人公はこのように当たり前とも思えることを、「ラブ・ストーリー」の一部であるであると考えることで、自分の恋愛に対するイメージを具現化することができる。

 すると、そのような現れであればラブ・ストーリーは「突然に」始まることもあり得るし、一方でそのロマンティスト的にモチベーションになるような要素がなくなればラブ・ストーリーが「突然に」終わってしまうことがありえる、ということになる。

 このようなロマンティスト的な恋愛を求める立場から、この主人公の恋愛観を見ていくと、この主人公にとっては上記のルートのどの矢印段階であってもそれが「恋愛の初期的段階」にあると見ることができる。

 

 ロマンティスト=恋愛に関する「恋愛の初期的段階」

 

と、結論づけるのは少々強引だとしても、自身の想いの一見当たり前と思える部分さえも「ラブ・ストーリー」だと思えるというのは、まさに恋愛に関する「恋愛の初期的段階」であるといえるだろう。

 ところで、この主人公はたしかに恋愛に関する「恋愛の初期的段階」にいるのだとして、では恋愛の初期的段階にもいるといってしまうこともできるのだろうか。実際には必ずしもそうであるとはいえないだろう。

 もし恋愛の初期的段階にいる、あるいは第一の結晶作用の状態にあるとすれば、それは相手の美点についての言及になるはずである。たしかに、

 

「君があんまりすてきだから

ただすなおに好きと言えないで」

 

という言葉もある。相手を表現するにあたって端的に「すてき」であるとし、さらにすなおに好きと言えないほど(つまり逆に間違いなく彼女のことを好きだとということである)彼女に「まいっている」。この「すてき」→「好き」をその枠組みだけとらえれば間違いなく第一の結晶作用であり、恋愛の初期的段階ではある。しかしこれは、「すなおに好きと言えない」というような恋愛に関する「恋愛の初期的段階」であることの正当化として、「君があんまりすてき」と言っていると見ることもできるだろう。

 このような恋は、このような恋のままでずっといられるのだろうか。スタンダールの第一の結晶作用はそれが「第一」といわれているようにその「後」が存在する。ある程度誰もが経験するように、恋はただ幸せで相手のことをなんのためらいもなく賛美出来る状態が続く訳ではない。この楽曲の主人公がそのことに気がついているのか、というのは非常に微妙な問題だろう。

 

「誰かが誘う言葉に もう心揺れたりしないで」

 

という一行だけが、男か女か、どちらかの過去を一瞬想起させる。それを知っているならば、このような恋愛に関する「恋愛の初期的段階」がいずれ、突然に、終わってしまうかもしれないというのは予想出来ないことではないだろう。

 このような恋愛の初期的段階と、恋愛に関する「恋愛の初期的段階」とが、歌詞の世界の中で絡み合うということは十分あり得ることであり、また初期的段階に限らず「恋愛」の中身と「恋愛」そのものに対する態度がどちらも現れるというのは、よく現れるモチーフである。それは歌詞という表現方法が一番大きな理由になっている部分といえるかもしれないが、それについては次章以降の課題とする。

 

 

J-POP恋愛論 1.0「恋愛の初期的段階」について

J-POPの楽曲から恋愛を取り出すにあたって、いくつか基本的に共有しておくべき事項があるだろう。もちろん、本稿全体で述べたいのは日本人的な(あるいはJ-POPのリスナー的な)恋愛のモデルが存在し、それを実証出来るというようなことではない。しかしながら、楽曲の歌詞を分析していくなかで当然そのようなある程度形式化された上で受容されている恋愛の形があり、またそれを前提にして作られた楽曲もあるということは明白であろう。

 ここでは、「恋愛の初期的段階」という語を用意したい。恋愛の初期的段階は、物理的な、つまり例えば出会いから付き合うまでといった時系列的な初期性を表すのではなく、あくまで「恋愛に対する」態度の問題である。

 スタンダールが恋愛の経過を七段階にわけるときに、「第一の結晶作用cristalisation」と呼ぶ段階までの状態と、ほとんど同じであると考えてよいだろう。この段階においては、基本的にその恋愛は理想的な状態であり、相手の良い点、あるいはこの恋の非常にポジティブな面のみが現れてくる。そのような心的段階は、物理的関係としての恋愛のどのような時点まで存在するかはわからない。最初だけ、本当に突発的にそのようなものが生まれることもあれば、永遠にそのような状態がつづくと思うこともあるだろう(それはほとんど錯覚だろうが)。このような段階の特徴として考えられるのは、ある種の「自分勝手さ」である。恋愛はその発生過程からいって、基本的に主体的なものである。現代のJ-POPが受容されている社会において、我々は自由恋愛を前提としており、誰が誰をいつどんな場所で好きになってもそれ自体には倫理的な問題はない(例えば結婚している相手を好きになったとしても、それ自体は倫理的問題はないと考えるだろうし、そもそもそれを問題化させる方法が存在しない。倫理的な問題は、ある程度の度合いで法的な規制との相互関係にあるが、そもそも法的規制は方法論的にそれが実践される可能性がある対象にしか向かわないから人の心的態度に対してそれを問題視するのは公的には不可能であろう。また、そうでなくても実際にそれらが問題である、と考える人はいないだろう)。よって当然、誰かのことが気になり始める、好きになるというのは自分の気持ちとして主体的にスタートすることになる(「好きといわれると、好きになる」ということもあるだろうが、それにしても別に考える必要はない。ところで、そのようなテーマの楽曲がほとんど存在しないのはなぜだろうか)。

 有り体にいえば、恋愛の初期的段階というのは「自分の「恋愛への理想」が、今現在進行している恋愛において実現されている、あるいはされるだろう」と思っている段階のことである。この段階においては、その「理想」に当てはまる、あるいは無理にでもそのように解釈出来るもののすべてが重要さをもつことになり、その恋愛の中で意味を与えられる。

 例えば恋愛の初期的段階における「一本の電話」と、そうでない段階(まだ定義していないのだが、初期的段階でないと思えばとりあえずよい)の「毎日の会話」のどちらに意味を見いだすか(たとえば「思い出に残っている」のはどちらか」)といったことだろう。

 このような初期的段階が、ある一定程度の時間続くことを「純愛」あるいは「一途」といった言葉で表すこともできるかもしれない。今風にいえばその時間が短いことを「チャラい」ということもできる。しかしおそらくどんな恋愛にもこのような初期的段階は存在する。いきなり、恋愛がその次の段階からはじまるということは考えにくいだろう。前述した通り、スタンダールは、恋愛を段階的に見た時にこの初期的段階にあたるものを以下のように分類している。

 

①感嘆

②自問

③希望

④恋の発生

⑤第一の結晶作用

 

①、②は恋愛の対象に出会ったことによる喜び、確認である。また③ではその確認をよりたしかなものとして、検討することになる。これによって④でこれが恋として同定される。恋が発生すれば、「第一の結晶作用」がおこる。第一の結晶作用についてスタンダール

 

ザルツブルグの塩坑では、冬、葉を落した木の枝を廃坑の奥深くに投げこむ。二、三ヶ月して取り出してみると、それは輝かしい結晶でおおわれている。山雀の足ほどもない一番細い枝すら、まばゆく揺れてきらめく無数のダイヤモンドで飾られている。元の小枝はもう認められない」(スタンダール『恋愛論』

 

と、書いている。つまり、恋愛が発生することによってその恋愛対象を美化し、その本来の姿は見えなくなるということである。

 J-POPにおける恋愛の初期的段階は、この第一の結晶作用をより広義に解釈したものである。つまり、この結晶作用は「恋愛」そのものに対しても起こりえると考える。恋愛対象を、美化するということもありえるが、一方で恋愛の初期的段階であらわれるのは自分がしている「恋愛」そのものも美化し、それらのポジティブな点を代表しているいくつかのことを重要視し、またネガティブな点については目をつぶるか、あるいはそれほどネガティブでないと解釈をすることになる。登場人物たちが美しく彩られるのと同様に、その絵画をかざるフレーム自体が「ダイヤモンド」で飾られているのである。これを以下では「恋愛に関する「恋愛の初期的段階」」とよぶ。

 これはあるいは、「歌詞」という客観的視点を用いるために必要となることなのかもしれない。いずれにしても以下ではこのような状態を「恋愛の初期的段階」として、いくつかの恋の歌をみていきたい。

 

J-POP恋愛論 0.3「各章の構造」

以下では、恋愛のいくつかの段階、あるいはいくつかの場面に応じて、それに対応した曲を恣意的に選択している。この選択に客観性を持ち込む必要はないと判断した。その中でも一応前提したこととしては前述通り、ヒットチャートから楽曲を選択した事である。これは記述上の問題から、多くの人がそもそもその歌詞を把握している必要があるということもそうであるし、またもう少し踏み込めばそれらが人口に膾炙したことには何かしらの意味があると考えたからかもしれない。

 しかしそのような段階、あるいは場面が何か一定の意味をもっているとかその順番が何かを前提している、ということはないと少なくともこの時点では表明しておきたい。