毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

「オドループ」と「リサイクル」のはなし

先日イベントの楽屋で、KEYTALKの小野武正さんとご一緒した際に、MINT mate boxのメンバーに音楽の理論のお話をしていただいて、これがとっても面白かった。
で、家に帰ってミントの曲の音楽理論的な部分について少し考えて見た。ミントといえば、Youtubeでのコメントでも結構な数あるのが「リサイクル」という曲がフレデリックに似ている!という話。特に「オドループ」というフレデリックの楽曲に「リサイクル」が似ているというコメントが多かった。畏れ多い話で、気持ち的には嬉しいのだけれど、もちろん良い意味なのか悪い意味なのか、それはかいてる方によって色々あって、まあ作曲編曲者の実感としてもたしかに似ているようにも思う。ということで、具体的にはどういったところが似ているのだろうか。

www.youtube.com

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まず、大前提として、曲は「リサイクル」のほうが当然後に作られたものであって、「オドループ」という曲の存在を、「リサイクル」をつくる際にもちろん僕は知っていた。しかし曲を作る上では特別に意識はしていなかったと思う。というのも、実は割と同時期に別の仕事でアレンジした曲の中で「オドループ」のアレンジ上のとある点を意識した楽曲があったので(興味ある方は探してみてください)、それとの差別化という意味でも同じタイミングで同じ曲を具体的な参考楽曲にあげるということは流れ上考えにくい。もちろん、その時期に良くきいており、しかもこの「オドループ」という曲が僕は非常に好きなので(その理由も色々あるので後述します)、無意識に心のどこかにそれがあった可能性がないとはいえない。
 ということを前提にしつつ、曲の中身を見てみよう。「オドループ」に関してはもちろんフレデリックの作品であるため、基本的な事項は推測だが、ある程度音楽の理論や定義の決まった言葉で説明することはできる。

まず、
「オドループ」も「リサイクル」も実はbpmといわれる所謂、曲のスピードがどちらも172で同じである。いきなりこれがおなじでびっくりかもしれないが、もう少しふみこんでみていってみよう。いわゆるポップスやロックなどの曲はその多くは80-180くらいの間にほとんどのbpmがあって,
80-110 ゆっくり
110-140 中くらい
140以上 速い
といったように大体わけることもできる(まあもちろんこれはあまりにも雑な分類なので感じ方は人それぞれではあるけれど)。
なので、172というのはかなり速い曲の部類に入るだろう。ここまでは、とりあえず速い曲という分類に二つとも入ったというだけのことなので、まあそれほど不自然なことではない。ではどうして172という数字で同じになったのだろうか。考えられるのは以下の理由である。音楽、特にポップスの世界では、4の倍数で色々なこと考えることが多い。たとえば4分の4拍子といって一小節に四分音符が4つぶん入るという構成で作られている曲は非常に多く、かなり暴論で言えばJPOPの大半はそうだといえるだろう。(例えばバラードなどで違う曲も多いので、さがすのも面白いかも)。で、これらの曲では、AメロとかBメロとかといわれる各ブロックの小節の数も4とか8になることが多い。これにも色々な理由づけが考えられるが(例えばコード理論など)、感覚にうったえるならばその数で曲が展開していくのが気持ちいいと感じる人が多いという感じだ。4の倍数とはポップミュージックにおいてもっとも基本的な数字である。
172という数字は4の倍数であるのでたとえば171とか173とかよりは出てくる可能性が高いということがこれで少しわかるだろうか。例えば、bpmが120というのは1分間に120回うつということなので(もちろんこれも4の倍数)、時計の秒針の二倍のスピードだからこの120というbpmは人間にもかなり馴染みがある。ここから4ずつ変化させて曲の bpmを決めることが多い。メトロノームというこのbpmを一定の間隔で音をだして、テンポをとるための道具があるが、昔の質があまりよくないメトロノームは、bpmが120から4ずつしか変化できないものもあった。(今はだいたい小数点刻みでも変えられる)
パソコンを使って、曲をつくりはじめるとき、僕自身はこのbpmを最初にきめるので、その際にこの4の倍数理論に基づいて、ひとまず4の倍数でbpmを決めることになる。180というのが時計の速さの二倍である180のさらに1.5倍なので、これはかなり速い。それよりも少し遅いくらいで172ということになった、というのがリサイクルのbpmを最初にきめたときのイメージだったと思う。
バンドなどで曲を作っていく中で、「もう少し遅いほうがいいな」とか「もっともっとはやくしよう」とか「パートごとにbpmを変えよう」いったように変化していくことはもちろんたくさんあるが、この最初に作曲する人が仮で決めたbpmのまま発売される音源がレコーディングされることも少なくはない。

さて、次にこのbpmにも少し関係してくるが、サビで使っているドラムのリズムパターン、これはどちらも所謂「4つ打ち」といわれるものである。
https://www.buzzfeed.com/jp/misatoshibuki/kana-boon-quiz?utm_term=.ccLwL6lABX#.uhR7ox50pN
KANA-BOONのみなさんが作ったというこのクイズにも出てきて面白いのだけど、いわゆる邦楽のロックにかなりよくでてくるドラムのパターンである。ざっくりといえば、4分の4拍子の一小節の中でまず頭からバスドラム(「ドッ」みたいな音)が均等に4回、それと同じ箇所に、ハイハットのクローズ(「ツッ」みたいな音)が4回、さらにその間をうめるようにバスドラムバスドラムの間にハイハットのオープンが4回、さらにバスドラムの2回目と4回目のところにスネア(「パン」みたいな音)がでてきて、
「どっつーどっつー」というかんじで(文字で書くとなんとも間抜けなんだけれど)、踊りたくなるようなリズムがこの「4つ打ち」といわれるもの。これも意識してきくと、信じられない数の曲で使われているフレーズといえる。

と、ここまで、主にドラムを中心にしてリズムのことを書いたが、実際にスピードやドラムのリズムパターンというのは他の音程がある楽器にくらべるとかなりやれることに縛りがある。もちろん音楽なので何をやったって理屈上はいいのだけれど、人がきもちいいと感じるリズムのパターンというのはメロディなどの音の並びにくらべて限られているといえるだろう。実際、bpmをきめたドラムパターンだけをきいてそれがどの曲かわかる(つまり、曲がひとつに定まる)ということはほとんど考えられない。もちろん、非常に個性的なドラマーがそれを叩いた場合そのドラマーの個性としてそれがわかる場合(たとえばレッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナムなど)もあるし、あまりに斬新なドラムパターンによって、それがその楽曲だとわかる場合もなくはない(ニュー・オーダー「ブルー・マンデー」など)。がしかし、グルーヴといわれるようなそれぞれの個性に近いものも、あくまでバンド全体の中で生まれてくるものだ。

ということで、サビに関しては、スピードとドラムのパターンが同じということがわかった。そしてまたそれだけだったら、他にもそういう曲はありそうかな、というのもわかったと思う。なので、多分おおくの「似ている」と思った方の理由はこれだけではないだろう。

次に考えられるのは、コード進行である。曲には基本的にキー(調)といわれるものが決まっている。ピアノなど、譜面をみることがある人にとっては譜面の最初のところにシャープやフラットが何個ついているかという話で、そちらの世界では例えば「ハ長調」とか、そういう名前がついている。さてそれでいうと「オドループ」はト長調(G)、「リサイクル」はイ長調(A)で、キーは違う。キーが違うと出てくるコードも違ってくるので、これでめでたく違う曲、といいたいところなのだけど、そう簡単な話ではない。カラオケなどにいったことのある方の中には、たとえば女性が男性ボーカルの曲を歌おうとして歌いづらく音程を「+3」などにする機能を使ったことがあるという人もいるだろう。なんでああいうことが簡単にできるかというと、違うキー同士でもそれぞれには対応する音があって、その音に当てはめていけば、高さがかわっただけで、おなじようなメロディであるととらえることができるからである。これを転調という(「転調」という言葉の意味は微妙に何をさすのか場合によってかわってくるので、ここでは上記の内容を転調ということで)。だから違うキーで、違うコード進行にみえても、実は片方の曲を転調して、もう片方の曲のキーに対応させてみると、実はおなじ形式のコード進行だ、ということは非常によくある(というか世の中にあるほとんどすべての曲が転調まで含めればなにかとはコード進行が同じだ)。肝心の2曲をみてみると、サビの最初のコードが
オドループでは
G→A
となっていて
リサイクルでは
D→E
となっている。用語は知りたい人だけ抑えてもらえればいいのだけど、これはどちらも
サブドミナントドミナント
という進行で早い話、転調すれば同じコード進行なのである。
具体的にはもしリサイクルを一音下げて演奏したとしたら、このサビの頭の2つのコードは同じ進行になるというわけだ。

で、またか、と思われるかもしれないが、実はこのサビの最初に
サブドミナントドミナント
という進行はちょっとどころじゃないくらいよく使われている。世界中で代表曲をあげるのもちょっとおこがましいくらいたくさんある進行だ。MINT mate boxやフレデリックの他の曲にもある。しかしここまでのリズムの件もあって、これでかなり似てくる可能性も高くなってきたことは間違いない。

さてサビのコード進行に関しては、「オドループ」と「リサイクル」では、このあとの展開が異なる。前述のオドループを僕が大好きな理由もここからなのだけど、サビのみっつ目までは同じコード進行で4つ目にルート音であるDがでてくる(といってもここはつぎにもどってくるGの5度ととらえるのがいいのだろうけど)、そしてこのあとさらに印象的な部分(歌詞の「気に入らないよ〜」のところ)ではルート音から5度のAがメジャーからAmになっているし、サビのおわりはさらにBmからA#mという半音の経過音をはさんで、コードが進行していく。これはいわゆるキーからすると少し不安定(というような用語法があるということです)な進行で、これが「オドループ」の独特の浮遊感につながっていて、かっこよさとおしゃれさが素晴らしいバランスにミックスされている。「リサイクル」は逆に安定なコード進行のみをつかって、サビの張り詰めた疾走感をだしているのだけれど、そのように聞いてみるとサビの後半にいくにしたがって曲の印象が違ってくるのがわかるかもしれない。

というようにサビの入り方で、似ていると感じる要素がでてきたのだが、さらにもう一つ、サビに入るメロディで
オドループであれば
「踊ってない夜を〜」
の最初の「お」

リサイクルであれば
「あのころの理由〜」
の最初の「あ」

というそれぞれ一音ずつが、サビの小説より8分音符ひとつ分先に入る。これもメロディのリズムパターンが同じとなるため、この二曲の印象が近くなる理由といるかもしれない。

さがしていけば、他にも色々と似ていると感じる理由はあるかもしれない。
「オドループ」は、このサビのコード進行の仕掛け以外にも、イントロのフレーズ、そして音作りの素晴らしさや、あとは例えばミュージックビデオの仕掛けのおもしろさなど、mintからすればまだまだ及ばない点も非常に多くて、似ていると思う、と僕がいうのはあまりにも雑な発言になってしまうかもしれないのだけど、
フレデリックの音を最初にきいたとき、きっとこのサウンドを構築している中には自分と同じように80sニューウェーブが好きな方がいるんじゃないかなと勝手に思ったり、フレージングにやられたと思ったことが多かったので、きっとまだまだ難しいのだけれど、いつかMINTとフレデリックが対バンするようなことがあったらすごく嬉しいだろうなと、
思いました。

 

 

フィロソフィーのダンス2nd album『ザ・ファウンダー』作詞家による全曲解説!

フィロソフィーのダンス2nd album『ザ・ファウンダー』の発売が近づいてきた。今日0時からはSoundcloudでも全曲の完全版がフルコーラス試聴できるというニュースも出て、いよいよ、という状況で、1stのときはできなかった楽曲の解説を少ししてみたい。

 

soundcloud.com

理屈なんか抜きで、いい音楽はいいと思うし、ダメなものはダメでいいと思うのだけれど、逆に考えれば楽しみ方は色々あるので、
アイドルグループで「哲学」という根本テーマと作詞家が固定されているという珍しい体制であることもあって、作詞家視点でのこのアルバムの1つの楽しみ方をかいてみたい。

 

『ザ・ファウンダー』
まずアルバムタイトルは、今年夏にプロデューサーである加茂啓太郎氏との話の中ででてきた。全体のコンセプトを司る加茂さんがタイトルをきめるというのはごく自然なことではあるが、「創立者」「創業者」を意味する「ファウンダー」という言葉は自分たちで自分たちのハードルをあげていくという加茂さんが無意識にいつも製作陣に求めているコンセプトを体現しているともいえる。
フィロソフィーのダンスは毎月1回の定期公演(あるいはワンマン)で基本的に1曲ずつの新曲を披露している、昨年11月に1st album『FUNKY BUT CHIC』を出したので、そこから新たに12曲のアルバムがつくれるまで約一年、このアルバムが11月にでるというのは基本的にはわかっていたことではあったが、タイトルが決まると俄然それはリアルなものになってくる。

1.ダンス・ファウンダー
夏頃、アルバムを実際に制作して行くことがきまり、既存曲の再レコーディングなどもすすみタイトルもきめていくなかで、アルバムテーマを象徴する曲というのが加茂さんや作曲家の宮野くんとの中でかなり頻繁に話題になるようになった。ちょうど7月にフィロソフィーにとって3回目のワンマンライブがあり、その前後、そして10月の4回目のワンマンにむけて色々なことを考え始めた時期だったとも思う。フィロソフィーのダンスのワンマンライブには「Do the strand」というタイトルが付けられている。これはもちろん、加茂さんも敬愛するロキシーミュージックの名曲”Do the strand”からそのまま付けられものだが、この七月頃、色々とアルバムやワンマンのことを考えていた僕はこの曲を何度もきいていた。その中で一番印象にのこったフレーズが“Danceable solution”いうなれば「踊れる解決法」というワードだった。”Strand”というのは、ロキシーミュージックの造語であって、架空のダンスのことであるというのは有名な話だが、つまりストランドは踊れる解決法なのではないか、ということになる。我々は踊れる解決を目指すべき、そして目指すことができる。まだ解決できない様々なものに対して、新しいダンスを提示したい、というのが「ダンス・ファウンダー」だった。
 フィロソフィーのダンスにおいてもまだそれほど多くないが、ここ最近加茂さんや宮野くん、また何人かのディレクターとの間で「詞先」(曲よりも先に歌詞をつくる)という制作スタイルを積極的に取り入れようとしている動きがある。アイドル曲の多くは(実際の感覚としてはアイドルに限らないがひとまずわかる範囲では)、先に作曲家による楽曲があって、そこに作詞家が歌詞をそのメロディにあわせて載せていくことになる。これは特段伝統的なスタイルというわけではないが、ここ最近はそれが顕著で、これは作詞家としてもある程度の技量が必要だが、一方ですでに曲があるのである程度やれることが決まってくることになる。その中で最高のものをつくるのだけれど、そうでない作り方をしてもいいんではないか、踊れる解決法で新しいダンスを踊るんだから、ということで、「ダンス・ファウンダー」は先にタイトルとサビの歌詞をかいた。作曲家の宮野くんがそれをもとにサビのメロディとアレンジ、そしてさらにそれにつながるAメロ、Bメロといった流れを持ってきてくれた。そしてここにさらにAメロ、Bメロの歌詞をつける、という変則的なスタイルで「ダンス・ファウンダー」はできた。といっても、それは楽曲ができたというだけのことでアイドルはここからがある種本番である。歌振りは「ABCをこえるフィロソフィー」を誰が歌うのだろうというのが、このグループである意味一番の正統派アイドルである佐藤まりあが歌うことになり、加茂さんわかってますね、とほくそ笑んだのも覚えている。さらにライブでの披露、振り付け、といった欠かせない重要なステップがあり実際に制作時期から披露までが限りなく短くなってしまったが、メンバーは僕が思う以上に「もっといける!」というライブをみせてくれたし、振り付けも「間違ったステップなんてない」ということを見せてくれた。フィロソフィーのダンス制作チームで最高の「アルバムテーマを象徴する曲」が完成した。

2.ライク・ア・ゾンビ
 この楽曲は、今回はアルバムの中ではもっとも古い時期にでき、昨年の1st album発売、ワンマンライブ直後の12月の定期公演で初披露された。そういった意味ではこのアルバムが作られることのまず最初のきっかけになった曲であるといえる。
 哲学というフィロソフィーのダンスに通底するテーマのなかで「ゾンビ」といえば、「心の哲学」という分野を少しでもかじったことがある方であれば「哲学的ゾンビ」というワードがまず瞬間的に思い浮かぶだろう。「心の哲学」は20世紀にできた比較的あたらしい分野で(というのも哲学は紀元前からの営みで、紀元前にかかれたテキストをいまだに現代の学者が研究しているような学問なのである)、その中ではよくまさに現代だからこそ想像できるような「思考実験」というものが提示される。「哲学的ゾンビ」もそのひとつで、外見上や物理的な反応の上では人とおなじなのに、「心」がまったくないような存在を仮定したとしたら、我々がそれを人であると考えることできるのだろうか、というような議論である。なぜそんなことを考えないといけないのか、というのは哲学では非常によくある疑問なのだけれど、「哲学的ゾンビ」は世界はすべて物理的な対象だけで記述できるという考え方へのアンチテーゼとなっている(もしそういう考え方を認めたら「哲学的ゾンビ」は人間と同じ、ということになってしまうから)。もちろん、これに関しては興味のある方はたくさんの解説書が日本語でもあるので、そちらで読んで欲しいのだけれど、もうひとつやはり話としてはずせないのがゾンビ映画のオマージュ。ゾンビ映画というのは僕にとって、ホラーとは違うまさにFunky but Chicなテーマで、そういった意味でも歌詞の中にはゾンビ映画のお約束的な出来事がたくさん現れる。ぜひそんなところもチェックして欲しい。

3.はじめまして未来
これも順番としてはライク・ア・ゾンビの次につくった曲だ。ゾンビにつづいて作・編曲はもちろん宮野くん。宮野くんはファンキーでブラックな楽曲のイメージも強いけれど、1stの「オール・ウィ・ニード・イズ・ラブストーリー」などファンキーさは残しながらポップなメロをかけるというすごい作家なので、この曲がきたときも僕は「今まで一番いい曲かもしれない」というのも宮野くんに伝えた。が、しかし宮野くんが仮歌でいれてくれていた英語のような英語じゃないような歌詞がかなりしっかり歌になってしまっていて、まずこれを忘れるのが大変だった。仮の歌詞というのはもうこれ使ってほしいです、というあざとい内容のものも多いのだけど宮野くんはまったくそんなことはなくて、メロとして最高のものを提示してくれる。(メロディを楽器でひいておくるのが作曲家だと思うかもしれないが、それだと歌で出したい雰囲気が伝われないので基本的にフィロソフィーのダンスもふくめ大体は作曲家やまたその周りの人などが仮の歌をいれて作詞家のもとにおくることになる)。ただこの曲に関しては、あまりに宮野くんの仮の歌詞のはまりがよく、めずらしく歌詞を考え始めてから日をまたいで次の日を迎えてしまった。ということで「It’s a new day!」なわけである。冗談はともかく、サビはじまりでもあるこの曲の冒頭を「It’s a new day!」に決めてからは、はやかった。プロデューサーの加茂さんとは「卒業ソング的な雰囲気もありではないか」という話をしていて、それも念頭にあったのだけど「アイドルの世界における卒業」ではなくて、まさに卒業式というのをテーマにしてみた。哲学には現在主義という考え方があり、存在するものは現在にしかない、というものだ。未来というのは目の前にあるようで、きづいたときには通り過ぎてしまう。それでも常に目の前の未来にむかっていくしかない、その向かい方だけを人がきめることができる。
Dメロ、ライブで日向ハルが彼女のボーカリストとしての最高の未来をみせてくれる「走っても明日はすぐこない、でも助走つけてはじめたい、ずっとずっと先の未来でも理由はここから」はそんなフレーズだ。
 ところで、この曲は宮野くんも言及するようにEW&Fの”September”が下敷きにある。それはもちろん聞いてすぐにわかったのだけど、9月は卒業シーズンではないし、「マーチ」というタイトルにしようかと一瞬思ったというのをせめてもの裏話としておこう。

4.エポケー・チャンス
一転して、ストレートなファンクナンバー、作られたのもかなりアルバム発売に近い時期。「エポケー」というのは哲学で使われる用語(ギリシャ語由来)で「判断停止」という意味だ。といっても、判断をやめるチャンス、というのはよくわからないと思う。「エポケー」という用語が使われるのは哲学でも「現象学」といわれるジャンルで、それはここでざっくりと解説することもできないような広範な射程をもった学問なのだけど、誤解をおそれずいえばエポケーというのは「現象学」のなかのひとつの手法で、世界をありのままにうけいれる、われわれの予断が入り込まない形でうけいれることによって、純粋世界の構造をしるための最初の手段である。まだまだよくわからない、という感じがするだろうが、これは実際別にそれほど不自然なことではない。我々が思い込んでるような常識に対しても、エポケーは可能である。しかしこれは意外と、大事な点なのだが、エポケーというのはやろうと思わないとできないのだ。普通にいきていて、自然にそれが完遂されることはない。だから、エポケー・チャンスを見逃さないように、ということになる。ところで、この曲はもうひとつ下敷きにダンテの『神曲』がある。それはぜひ色々想像をめぐらせてほしいのだけれど、願わくばこれが「神曲(かみきょく)」にもなってくれれば、なお嬉しい。

5.夏のクオリア
 ライク・ア・ゾンビでも言及した「心の哲学」は20世紀の哲学の一大分野で、その名のとおり、我々の心の構造をどうとらえるか、ということに対して様々な視点を提示している。「クオリア」というのもその「心の哲学」で使用されることの多い単語だ。このクオリアという語はなかなかに説明が難しい。これもまた誤解を恐れずいえばなにか対象にたいしてうける「感じ」といえるものである。たとえば、我々は造花をみて、それを「花のようなもの」というに感じることができる。しかし物理的にはそれは花とは全く異なる(成分など)。にも関わらずそれが花であると感じる理由は、その花に「花感」を感じているからだ。この「感」をクオリアという。
 夏は、「暑い」とか「海」とか色々具体的な夏をイメージさせる物事以外にもなにか漠然として「夏感」を感じる。例えば、フィロソフィーのダンスも結成から毎年「TIF」や「@JAM」をはじめとした夏フェスイベント(今年はサマソニも!)に読んでいただいたりしたが、まったく同じ場所で、気温も一応同じで、出演者も同じでも、あの雰囲気は「夏」でしかありえない。夏の恋もそうかもしれない。我々はまったく同じものをみたとしても、そこに季節というものから別の「感」を手にすることができる。Bメロ冒頭、三回出てくるフレーズはすべて十束おとはによる歌唱だが、最初のレコーディングで「わたしのパートは海行って、海をみて、帰ってくるだけ」という話をしていて、たしかにその通りだけど、その着眼点が興味深かった。でも海もきっと行きと帰りではまったく違う「感」をもっている。久しぶりの連絡も。

6.ニュー・アタラクシア
 この楽曲もある種、夏の「クオリア」を感じる曲かもしれない。ラテンのビートがそうさせるのもあるだろう。作・編曲の宮野くんもおそらく話すだろうが、この曲は完成までかなり紆余曲折あり、一度は世に出ないままおわるかもしれなかった。4回目のワンマンライブでのパーカッションの入ったライブも記憶に新しいが、「アタラクシア」とは何か、というのがとりあえず目下の疑問にはなるだろう。「アタラクシア」は単に語義的には心が平静な状態にいることだ。安心して、安定している状態。アイドルというのは、ある意味それとは程遠いものかもしれない。僕自身も作家であるから近いものはあるのだけど、彼女たちは安定した職業や仕事というのとは真逆のことをやっている。僕もよく人にそういわれるのだけれど、でもむしろよく考えてみると毎日何がおこるかわからないという「不安定さ」がむしろ心の平穏、つまりは毎日の楽しさを生んでいるというふうにも考えることができるかもしれない。それが、アイドルの世界の「ニュー・アタラクシア」となる。
 ところで、この楽曲はタイトルの雰囲気もふくめ具体的なとある状況をイメージして書かれたもので、それはここにかくのもすこしどうかなと思うことだったのだけど、メンバーも意外と僕が何もいう前から気づいていた。彼女たちの成長っぷりは本当にみていて面白いのだけど、そんな偉そうな視点ではなくて、自分も一緒に成長しようと改めて思った曲でもあった。

7.バッド・パラダイム
 これは宮野くんにいわせると僕の「口の悪いとき」の歌詞らしいのだけど、それは確かにわからないでもない。パラダイム、というのは科学哲学で最初につかわれた用語である範囲で支配的な規範や模範などをさす。たとえば、かつては「地球は平」だったのが、いくつかの発見により「地球は丸い」というのが常識になった。こういう変化をパラダイムシフトという。ところが、この安直な感じの理解は実際に20世紀にこのパラダイム論に関してかなり大きな誤解と議論を招くことになった。それに関してはwikipediaなども十分面白くよめるので、ぜひ読んで欲しいところなのだけれど、アイドルの世界にもこの誤解されたパラダイムがたくさんある。それはパラダイムのようにみえるけど、まったくそんなことはないよ、ということをいうとどうも口が悪くなってしまうらしいのだけど、それは我々が科学とちがってアイドルを感情で理解し、感情で追っているからだろう。

8.ミスティック・ラバー
 アルバム中でももっと大人な世界が広がっていると思われるこの曲、作詞家的にいうと、この曲のサビのメロは非常に日本語の歌詞がつけにくい。技術的な話になってしまうので、基本的には割愛したいが、そこで苦労していた時に、実はフィロソフィーのダンスのイベントをみながり、こっそり歌詞をかいていたことがあった。外で歌詞をかくときは、なにか未だに気恥ずかしさがあって、テキスト入力の文字サイズをかなり小さくしてかいている(まあもちろん発売前のものを見られたくないから、と人には説明しているけれども)。そのときはイベントだったので、いつもよりさらに小さくしております、状態だった。「ああシークレット」というのは、まあ言ってしまえばその瞬間におもわず出てきたフレーズなのだ。実はかきたいテーマだったので、そこからはすらすらといけて、そしてこの曲はなんといっても振り付けにかなりぐっときた。意外と言われないのだけれど、タイトルはもちろんイーストウッドの「ミスティック・リバー」から。哲学的には神秘主義という、僕が大学生くらいのときに専門と関係ないのにずっと秘密で勉強していた分野に由来している。

9.ドグマティック・ドラマティック
 いきなり歌詞とは関係ないのだけど、この曲の宮野くんのアレンジは本当にすばらしくて確かこの曲のころ彼がドラム音源で主につかっているものをかえたといっていたので、僕もそれをのちに買うことにしたくらいの名アレンジだ。実際それが素晴らしかったからなのか、よくわからないが、この曲の歌詞は20分くらいでできたと思う。テクニカルな話ではBメロの韻の踏み方は日本語ならではのものなので、ここは歌詞カードもみながらぜひチェックしてほしいし、あとはドグマとドラマというのも日本語でないと以外に対比するということはないのではないだろうか。ドグマは、哲学や宗教学でもよく使用される用語で「独断」といったところだろうか。ドラマはある意味、それとまったく逆のことかもしれない。

10.アルゴリズムの海
 アルバムでは唯一、僕が作曲もした曲で、アレンジ的にもアルバム内でも抜群に異色な楽曲だと思う。実は最初に曲を作り始めた段階ではこういう雰囲気ではなく、むしろ「アルゴリズム」という語からイメージされるような機械っぽい(よくわからない言い方だが)アレンジだったのをある瞬間からばきっと変えてしまった。結果的には最高のアレンジになったと思う。歌詞は、特に歌詞カードでみるいわゆるアルゴリズム、あるいはプログラムのコードを模した構成になっているので、ぜひ文面でも見てもらいたい。
 時々歌振りやレコーディングの時にメンバーや宮野くんと話していて、どうでもいい嘘をついてしまうことがあるのだけど、この曲のレコーディングのとき、インドの東側の海のことを「アルゴリズム海」といってそれが曲名の由来だといったら誰も信じてくれなかった。最初のころはいろいろ真に受けてくれたのに、成長著しいとはこのことである。

11.ベスト・フォー
 フィロソフィーのダンスは4人組、この4人でなければ成り立たない構成が楽曲でも振り付けでも、盛り込まれて作られている。でも、実際に彼女たちと接してみると、そういった構成上のこと以上に4人がお互いを良い意味で意識して、その意識によってこのグループが一層面白いものを生み出していっていることがよくわかる。そうじゃなかったら、ベスト・フォーなんてタイトルつけられないよ、と4回目のワンマンのあとに奥津マリリには話したけれど、実感あるのかないのか、でもないくらいがちょうどいいのかもしれない。特に彼女はグラビアだったり、色々なところでフィロソフィーの活躍の場を広げていって、それがまたメンバーに面白い影響を与えていたり。
  フィロソフィーのダンスの歌詞は、二人称に基本的に「あなた」をつかっている。しかしこの曲は「君」。「君のすきなものに、君の前でなるよ」この君は誰なのだろう。そしてタイトルのもう一つの意味、「best for following」はまたそこから一歩進んだ世界を表現している。途中に出てくる数字たちも、なにか多くの可能性と戯れる彼女たちのこれからを表現できていたらいいなと、何かもはやそのくらいのしみじみ感である。

12.ジャスト・メモリー
 アルバムラストをかざるバラード曲。哲学的には僕もフィロソフィーのダンス開始当初からあたためていたベルグソンの記憶、そしてもちろんベルグソンの記憶と僕といえば忘れられないプルースト失われた時を求めて』に関するテーマ。さらに、またシングル発売時に多々言及があったように歌詞としてはアイドル界不朽のバラード松田聖子SWEET MEMORIES」へのオマージュにもなっている。というようにかなりハードルをあげ、内容も盛りだくさんになったのだが、バラードをつくるというのはずっと宮野くんとも話していたことで、もちろん1stの「いつか大人になって」もあったのだけれど、グループとしてのバラード曲というのはやはりライブの構成上もメンバーにとってはなかなかの挑戦だったのではないかと思う。であるにもかからず彼女たちがそれを変化球ではなくて、ど真ん中直球で、記憶を更新し続けていることに驚きと安心感を覚えている。
 記憶というのは、非常に不思議なものでそれは事実と密接にリンクしながらも、ある意味で事実から一番遠いものにもなりうる。それが例えば、紅茶にマドレーヌをひたしたときなのか、はたまた、久々にライブに足を踏み入れて、握手をしたときなのか、そして曲をきいたときなのか、その瞬間によみがえったときに意味があるものであるように、アルバムはそういうパッケージになっているのではないかと最後にもう一度そう思える曲が最後に。これからフィロソフィーのダンスはどんな記憶を作ってくれるのか、それはもう自分にとっても楽しみでしかないこと。


最後に

ちなみに文章中では、メンバーをフルネームでかいてあるんだけど、普段はマリリちゃん、あんぬ、おとはす、ハルちゃんと呼んでいる。なんか文章にすると気恥ずかしい。
ひとつのグループでこんなに長い目でみて、歌詞を担当させてもらえるというのは本当に珍しいことでありがたいことです。
フィロソフィーのダンスを応援してくれているみなさま、製作陣・スタッフのみなさま、そしてメンバーのみなさま、いつもありがとうございます。
そしてこれからもよろしくお願いします。

バンドというものが解散するとおこること(の中で知っていること)


 2年前に、2012年くらいからやっていたふぇのたすというバンドが解散して(解散を決めたのはメンバーである自分とボーカルのみこだったので、解散させて、というのが正しいかもしれないけれど)、当時は本当に解散してどうするか、ということなんか2人とも1mmも考える余裕も時間もなくて、続けるべきか解散するべきか、それと解散するとすればどんな終わり方をするべきか、ということを、その時は考えていた。
 自分の感覚としても信じられないことなのだけれど、メンバーだったミキヒコが2015年の5月に亡くなって、そこからふぇのたすを続けるか続けないか決める瞬間までの記憶があまりない。2年以上前のことだから覚えてないということではなくておそらく本当にその間は何も考えていなかったような気がする。それより前のことはよく覚えているし、ミキヒコと最後に話したことも覚えているから。じゃあなんでその数ヶ月のことを覚えていないかというと、そこまでの数年自分はほとんどバンドのことしか考えてなかったからではないか、と今になって思うようになった。だから、急にバンドのことを具体的に何もできない、自分にはどうしようもない数ヶ月がやってきたときに、自分にはすっかり自分の中心にすえて考えることがなくなってしまった。実際にバンドをどうすべきか、ということをみこと一緒に考える瞬間まで本当のところバンドを続けるべきなのか、という本質的な問題は考えられていなかったんじゃないか、とすら思えてくる。
 それで結論を出してみて、自分たちにとってバンドのこれからのあり方が決まったら、後のことは、ある意味でバンドをそれまで応援してくれた人たちのものだから、それに向かって何をすべきか、考えるだけだった。
 解散ライブは、いいライブだったと思う。当日のことはあんまり覚えてないんだけど、ファンの人の色々な声があって、のちに解散ライブの上映会をやれたので、そこで幸運にも自分たちの解散ライブをみることができた。自分たちのつくってきたものが消えて、また蘇って、そしてまた消える。

「バンドが解散しても音楽は残る」という言葉は自分もいったことがあるような気がするし、自分たちのバンドが解散するときもたくさんそういう言葉をきいた。もちろん、それはその通りで、今だってふぇのたすの曲を聴くことはできるし、それはこの時代だからこそなのかもしれない、本当にありがたいことだ。ただ、それでもこの言葉には現実とは、ほんのすこしギャップがある。ただ単に残された音楽というのは、必ずしもそこにあるといえるだろうか。自分にはただそこに漠然と、おいていかれただけの音楽は残された作品だとはいまだにいえない。どうしてかといえば、自分たちがやっていたのは、単に音楽を制作するということではなくて、バンドという活動だったからだ。それは、まさにかいたように、生活のすべてにコミットするようなものだった。
 それでも実際のところ今言いたいのは、「バンドが解散しても音楽は残る」という言葉が、いま嘘のように思えるかというとまったくそんなことはない、むしろそれこそが真実だということだ。
 なぜなら、みこが今、SHE IS SUMMERとして彼女の音楽を続けていて、あの頃信じていた人たちはみんな自分の音楽を続けていて、自分も作詞や作曲、プロデュースで自分の思う音楽を更新していて、それによって2年前に残された音楽もまた、「残されたいま聴ける音楽」としての存在を保ち続けることができているように思えるからだ。バンドは解散しても音楽は残る。
 バンドというものが解散するとおこることの中でひとつ、2年たってこんなことを知ることができた。

共感はしなくてもいい

歌詞に共感する、と時々言われる。いい歌詞だ、と思ってくれてるのならもちろんありがたいのだけど、共感という言葉を使わずに表現してみるのはどうだろうか、と思ってしまう。

人の心はわかったと思ってもよくわからないし、わかる必要はどこにもない。むしろ簡単にわかってしまうようなものは正解ではないように感じる。嬉しいとか悲しいとか、そういう言葉にだって程度や段階や温度や色があるはずである。
共感、というワードはそれらを無視した、少しばかりの冷たさを感じる。

それでも時々、どうしてもこれは自分の気持ちを歌っている、と思わざるを得ない曲が時々あって、それを共感と呼ぶならそうしかないのかもしれないけれど、きっとその瞬間は歌詞を書いた誰かや歌っている誰かよりもその人自身が自分の歌だと名付けてしまうのもよい。

「わたしの歌でした」と言われた方が嬉しいかもしれない、という話。

音楽の権利とメロディの存在論1

JASRACが話題になることがとても多い。本当のところはどうあれ、一般的にはその活動と理念のギャップ、あるいは著作権管理に対するイメージの色々など、実態と世間のイメージが必ずしもあっていないのだろう。
 そのような企業は多くあるようには思うが、「音楽」というJASRACが扱っている商品、そして権利そのものは身近なものなので、消費者、使用者側の拒否反応が大きくなっている。

 と、このようにさも社会問題を扱うかのような書き出しをしておいてなんなのだが、いや、実はそれを扱わないというわけでもないのだが、以下では音楽作品(楽曲、歌詞など)とはいったい「どんな感じ」のものなのかということを扱いたい。どんな感じ、というのもかなりどんな感じかわからないのだが、そうとしか現状言いようがないのだ。哲学的な用語の使い方になれた人なら「存在論」という言葉がある程度ぴったりくるかもしれない。

 どうして、音楽作品が「どんな感じ」のものなのかをあえて語る必要があるのだろうか。それを前述のJASRACの問題から考えてみよう。
 
 JASRACは楽曲の管理をしている団体である。ではその管理とはなんだろうか。ここで、たとえば同じく芸術作品である絵画を考えてみる。ゴッホの「ひまわり」といわれる絵のひとつは日本にある「東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館」が管理し、またその所有の権利を「損害保険ジャパン日本興亜」が持っている。ここでいう管理とはざっくりといってしまえば、絵画という物理的な対象、つまり物体をそのかかれた状態のまま保存することである。基本的には動かしたりはしないだろうが、それを動かすことも可能であり、そのことは絵を管理しているということの範囲内で行われる。しかしたとえばそこに新しい色を足したりすることは許されない*1。そして美術館はその作品をみるための入場料を、利用者に課すことができる。
 一方で、楽曲を管理するということはそれとはかなり様子が違う。まず管理すべき楽曲というのは物理的な対象、物体ではない。一般的に曲を作るということ、つまり作曲といわれる行為は少なくともこの楽曲管理の観点からすると、「メロディを固定すること」であると考えられている。しかしそれは、物理的な対象ではない。たとえばそのメロディをピアノで弾いたとしよう。その演奏は音波という物理的な対象となり、またそれが録音されればデータとして保存されることになる。しかしその音波や、データはその作曲者によって作られたメロディそのものとはいえない。なぜなら、たとえばそれをギターで弾いたとしてもやはりそれは同じメロディを演奏したことになるからだ。*2ではそのメロディをかいた楽譜がそのメロディそのものであるといえるだろうか。それもそうとは言えない理由がある。紙とインクという物質とその配置そのものを、メロディであると仮に認めたとしても、実際には楽譜に一切記載されていないがすでにその存在が認められているメロディが存在する(筆者自身の作った曲の多くはかならずしもその楽譜が残っていないので、明らかにそういったものが存在しているといえる)。
 
 このように、管理されるべき楽曲(メロディ)というものの存在は、その様子を明確に描写するのが難しく、また他の芸術作品と必ずしも同じように考えることができないことがわかる。これらをより明確にするために、音楽作品(メロディ)の存在とはどのようなものなのかということを表現できるような、メロディの存在論とでもいうべきものを考えたい。*3

*1:修復作業に関してはひとまず考えないことにしたい

*2:それがなぜ反証になっているのか、というのはそれ自体でまた別の哲学的な問題ではあると思う。が、ここではひとまず省略する

*3:おそらく作業そのものは、既存の存在論的なあるいは形而上学的な枠組みに対して、メロディがどのような位置をしめるかということを確認することが大半になるような気がしている

時間がループする世界の話1

先日、お仕事関連の方(といいつついまだ仕事はしたことがない方)に誘われて、はじめて「リアル脱出ゲーム」に参加した。正確なところでは、僕が参加したのはリアル脱出ゲームとはちょっと違っていて、「リアルタイムループゲーム」というらしい。リアル脱出ゲームも参加したことがないのに最初から派生作品をとも思ったが、かなり楽しめた。

 リアル脱出ゲームというのは、ある会場にあつまった参加者が色々なゲームをクリアしていくことでその場所から脱出する、という行程を楽しむものだが、今回参加した
「アイドルは100万回死ぬ」
というゲームの内容は、十回のタイムループ(ある一定時間で時間が巻き戻る)の中で毎回死んでしまうとあるアイドルを助けることができればクリアというものだった。内容にあまり触れすぎるとネタバレになるので、ひとまずは以下で概要を確認してもらいたい。

realdgame.jp



さて、このブログでも何度か、とりあげている「タイムトラベル」もののストーリーなわけであるが、この設定からSFものミステリ好きであればおそらく

西澤保彦『七回死んだ男』

を思い出すだろう。

こちらに関しても内容のネタバレは避けなければならないので、この手のタイムループものの構造そのものについていくつか考えることにしたい。

映画『君の名は。』に関する同様の考察はこち

 

shoyamamoto.hatenablog.com


 記憶をひきついだまま、時間が逆戻りし何分間か前に戻る、という条件設定だが、これはいくつか整理しなければならない点がある。まず何分間か前にもどる、と自分が確認できている以上「記憶」あるいは「意識」は元に戻るわけではなく、もともとの時間の流れのときにもっていたものを引き継ぐことになる。つまり何度繰り返していても、我々の意識だけは繰り返すことなく「ひとつ」のままだ。脱出ゲームでは当然、我々の身体も数分前とか数時間前とかに戻ることはできないから、意識とともに身体も引き継ぐことになるが、映像作品や小説などでは記憶だけがループする場合もある。たとえば『リプレイ』という小説では、ある年齢になると、かならず何十年か若い時代に記憶だけがもどり、また同じ地点から人生を繰り返すという設定が持ち込まれている(もちろん前世の記憶があるので、まったく同じ人生にはならず、それを利用してお金儲けをしたり、と色々なことが考えられるし、実際に作中でもそのようなことが行われる)。
 身体がループしない場合は、このループには必然的に肉体的死というゴールがあることになるが、そうでない場合、このループには終わりがないかもしれない。実際にいくつかの作品では、最初はそのループを喜んでいたが永遠に終わることのないループに気づき、最終的にはそのループから抜け出すことが目的となっている。
 もう一ついえば、そもそも記憶も繰り返しているという作品を想定することもできる。そもそも、上記のような場合でも自分とそのループを繰り返していることを自覚している人以外は、記憶や意識も繰り返していることになるが、そのような繰り返しに気づいている人がひとりもいなかった場合、どうなるだろうか。我々は実はすでに同じ時間を何回も繰り返している可能性はある。このように考えることは少なくとも論理的にはなんの不合理もない。(というか時空間に一定の流れがあると考えるほうがむしろ不自然だ、という人も多いだろう)我々はそれに気づく手立てはない
 しかしそのような状態を考えることは、少なくともタイムループという現象の内容を理解することにはあまり役に立たないように思える。面白そうなのはやはり、

「自分だけ、あるいは自分と特定の誰かだけがある一定の時間を意識や記憶だけを保ったまま繰り返している」

というタイプのものである。今後も使うかもしれないのでこれを「リプレイ型タイムループ」と名付けておく。

 タイムトラベルに関しては、これまでもなんども書いたように「パラドックス」との関係が不可避となる。その中でも最も有名なものが「親殺しのパラドックス」だ。身体ごと移動するタイプのタイムトラベルでは、たとえば自分が生まれる前の時代に戻って、自分の親を過去で殺してしまうということが物理的には可能そうだが、そうすると自分は生まれなくなってしまい、親を殺す存在がいなくなるので殺人は成立しなくなる、という矛盾した状況が生まれる。さて、このようなあまり気分のよくない例を持ち出さなくても、例えば次のようなパターンが考えられる。

例1
最近近くで火事がおこった。どうやら放火らしい。数日前、火事よりも前にタイムループしてもどった自分は警察に連絡し、火事がおこることになる家の付近で不審な人影をみたことを伝えた。その結果、警備がされるようになり、放火犯は犯行に及ぶことができなった。そして火事は起きなかった。

この場合、自分が「火事がおこった」という情報をいったい何からしったことになるのだろうか。もちろん、前回のループの記憶である。自分だけが記憶を持っているのだから、それ自体は何もパラドックスはないように見える。しかし考えてみるとこれは少しおかしい。なぜなら、我々はさきほどの親殺しのパラドックスパラドックスであると感じたはずだからだ。

AがBの発生に影響をあたえる、Bが(Aより前におこった)Cの発生に影響を与える。Cの影響でAがおこらないことになり、Aがおこらないので、Bが発生しないということだ。

我々がこれを何か矛盾したものであるととらえる最大の原因は、最初にAがおこりそれによってBがおこったという「オリジナル」の歴史があると思っていることである。このオリジナルに対して、それぞれ変更された別の歴史が発生し、その変更されたふたつめの歴史ではAの発生が未来をしった干渉者の手によって(いわば未来から)阻止されることになる。しかし、これをCという地点からスタートした歴史としてみれば、実は何も問題はないのである。

 さて、このリプレイ型タイムループの場合、身体ではなく、記憶や意識といった「情報」が未来から過去に影響を与えることになる。物理的な因果関係が、通常過去から未来への時間的な順序のルールから絶対に逃れられないのに対して、情報はその限りではないということが前提とされている。
 ここでもうひとつ問題を考えてみよう。

例2
ある日ポストに入っていた手紙の封をあけるとそこにはタイムマシンの作り方が書いてあった。タイムマシンに興味をもっていた科学者の私は、そこに書かれているいままでみたこともない斬新な理論や技術の数々がどうやら正しそうだと直感し、そこから10年の歳月をかけて、理論を解読し、必要な部品をつくりようやくタイムマシンを完成させた。私は完成したタイムマシンにのり、10年前の我が家を訪れ、ポストにこの10年の研究の成果を記した手紙を投函した。

この例において、問題になるのは、果たして「最初にタイムマシンの理論を考えたのは誰なのだろうか」ということである。私はタイムマシンをある手紙にのっとって開発し、その理論を完成させた。しかし実はその手紙をかいたのは、その理論を完成させた未来の自分だったのである。藤子.F.不二雄の短編などでも時折みられるこのような状況だが、これはパラドックスが発生しているといえるのか微妙な問題である。パラドックスとはふたつの状況がどちらでも矛盾するのだが、この場合は特に矛盾が発生しているわけではない。しかし何か奇妙な感じがする。
 それはやはり「物事にははじまりがあり、それが原因となって他のできごとがおこる」という前提を我々がもっているからだろう。この例で言えば最初にタイムマシンの原理を考える、というスタートがあってはじめてタイムマシンの理論が完成するという結果があるはず、ということである。しかしここではその順序が必ずしも守られているとはいえない。これについてもいくつか説明するための方法はあると思うが、またの機会にするとともに、ここで実際にどのようなことが起こっているといえるのか、もう少々議論してみたいところである。

なぜ浦島太郎は玉手箱をあけて歳をとらなければならなかったのか?

  浦島太郎というおとぎ話は、日本人なら大抵の人が知っているし、その話自体もそうだが、他の多くの話でも引用されることから物語のひとつの典型として認知されているように思う。一文で言えば、助けた亀に連れられて竜宮城にいった浦島太郎がしばらくそこで楽しく滞在して地上に戻ったら数百年が経っておりさらに玉手箱をあけたら年寄りの姿になってしまった、という話である。一文にまとめようと思って、まとめたわけでもなく実際にこれ以上ディテールを語るのは難しいようにも思う。
 そしておそらくかなり多くの人が思うこととして、なぜ浦島太郎は不幸にならなければならなかったのか、という問題がある。(数百年後の未来にきて、さらに老齢になってしまったことは不幸ではない、という人もいるだろうがそれはひとまず置いておこう)。
 浦島太郎は亀を助けるという「善いこと」をした。しかしその結果、最終的には「不幸」になってしまった。これはなにか釈然としないところがある。
 日本の古来からの文学作品、あるいはおとぎ話のようなものであっても、それらには仏教的な考えが前提にされており、その考えのなかでも現在でももっとも有名なもののひとつが「因果応報」というものである。これは「善いことをすればよいことが、悪いことをすれば悪いことが、その人にかえってくる」という考え方だ。浦島太郎の話がどうにも気持ち悪いのはこの「因果応報」にそっていない、つまり善いことをしたのに悪いことが起こっているということに由来するように思う。
 ところが、いくつかの文献によると、この浦島太郎と話はまさに「因果応報」を描いたものであるという。というのも、浦島太郎は亀に連れられていった竜宮城で短絡的な快楽におぼれた、つまり毎日仕事もせずだらけ楽で快適な生活を送ってしまった、それは「悪いこと」であるから、その結果として「老齢になる」という不幸がめぐってきた、というのである。そしてさらにおそらくこのような見方が前提しているのは亀を助けたという「善いこと」が、竜宮城での快適な生活という「良いこと」につながっている、という別の形での「因果応報」だろう。このように考えると、「因果応報」の形は崩れていないことになる。

 さて、では私たちがこの浦島太郎の話そのものに感じた微妙な感覚、釈然としない感覚はなんなのだろうか。これには二つの解釈があるように思う。

 一つ目の問題は、上記でみたように「亀を助ける」→「竜宮城で楽しむ」→「年をとる」という3段階でみれば、問題がない「因果応報」の関係を「亀を助ける」→「年をとる」という最初の原因と、最終的な結果だけで見てしまったことにあるように思う。原因と結果の問題に関して、このように途中のものをとばして考えてしまうことは非常に危険である。それらは「論理的」には原因と結果の関係になっている。つまりAがおこったのでBがおこる、またBがおこったのでCがおこる、よってはAがおこることによってCがおこる、というふうに考えるのは論理的には正しい。*1しかしながら、我々がそれを、つまりAからいきなりCにいくことを「自然」な話の流れであると思えるかどうかはわからない。例えば「今日は天気が悪そうだ」→「天気が悪くて気圧が低いと頭痛がおこるから頭痛薬を飲んだ方が良い」→「頭痛薬は胃に悪いから、胃薬も飲んだ方がいい」というのは正しいとしても「今日は天気が悪いから、胃薬をのんだほうがいい」と言われたら、なんのことかよくわからないだろう。
 しかしそれでもやはり全体で見れば因果が崩れているといえなくもないのでもう一つ考えてみよう
。一つ目ともリンクするのだが因果ではなく因果応報に関するもう一つの誤解である。上記で意図してかいていたのだが、「善いこと」と「良いこと」は必ずしも同じではない。つまり「善いこと」をしたことで、「良いこと」がおこるのはともかくとしても、「良いこと」から「良いこと」がおこるわけではないのである。誤解を覚悟でいえばこの話において「善い」というのは「他者に対して、よいことをすること」であり「良い」は「自分にとってよいこと」なのだ。だから、亀を助けるという「善いこと」をした浦島太郎には竜宮城での生活という「良いこと」が待っていた。しかしその生活は「良いこと」であって「善いこと」ではなかったから、その結果として何がおこってもおかしくないのである。因果応報は「良いこと」の結果に何があるか、ということに関してはとくに何も言っていない。
 つまり浦島太郎が玉手箱をもらったことに意味や理由などなくてもまったく問題ないのだ。




*1:注意深い方は気づくかもしれないが、「必然的に」正しいかどうかはまったくの別問題である