音楽の権利とメロディの存在論1
JASRACが話題になることがとても多い。本当のところはどうあれ、一般的にはその活動と理念のギャップ、あるいは著作権管理に対するイメージの色々など、実態と世間のイメージが必ずしもあっていないのだろう。
そのような企業は多くあるようには思うが、「音楽」というJASRACが扱っている商品、そして権利そのものは身近なものなので、消費者、使用者側の拒否反応が大きくなっている。
と、このようにさも社会問題を扱うかのような書き出しをしておいてなんなのだが、いや、実はそれを扱わないというわけでもないのだが、以下では音楽作品(楽曲、歌詞など)とはいったい「どんな感じ」のものなのかということを扱いたい。どんな感じ、というのもかなりどんな感じかわからないのだが、そうとしか現状言いようがないのだ。哲学的な用語の使い方になれた人なら「存在論」という言葉がある程度ぴったりくるかもしれない。
どうして、音楽作品が「どんな感じ」のものなのかをあえて語る必要があるのだろうか。それを前述のJASRACの問題から考えてみよう。
JASRACは楽曲の管理をしている団体である。ではその管理とはなんだろうか。ここで、たとえば同じく芸術作品である絵画を考えてみる。ゴッホの「ひまわり」といわれる絵のひとつは日本にある「東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館」が管理し、またその所有の権利を「損害保険ジャパン日本興亜」が持っている。ここでいう管理とはざっくりといってしまえば、絵画という物理的な対象、つまり物体をそのかかれた状態のまま保存することである。基本的には動かしたりはしないだろうが、それを動かすことも可能であり、そのことは絵を管理しているということの範囲内で行われる。しかしたとえばそこに新しい色を足したりすることは許されない*1。そして美術館はその作品をみるための入場料を、利用者に課すことができる。
一方で、楽曲を管理するということはそれとはかなり様子が違う。まず管理すべき楽曲というのは物理的な対象、物体ではない。一般的に曲を作るということ、つまり作曲といわれる行為は少なくともこの楽曲管理の観点からすると、「メロディを固定すること」であると考えられている。しかしそれは、物理的な対象ではない。たとえばそのメロディをピアノで弾いたとしよう。その演奏は音波という物理的な対象となり、またそれが録音されればデータとして保存されることになる。しかしその音波や、データはその作曲者によって作られたメロディそのものとはいえない。なぜなら、たとえばそれをギターで弾いたとしてもやはりそれは同じメロディを演奏したことになるからだ。*2ではそのメロディをかいた楽譜がそのメロディそのものであるといえるだろうか。それもそうとは言えない理由がある。紙とインクという物質とその配置そのものを、メロディであると仮に認めたとしても、実際には楽譜に一切記載されていないがすでにその存在が認められているメロディが存在する(筆者自身の作った曲の多くはかならずしもその楽譜が残っていないので、明らかにそういったものが存在しているといえる)。
このように、管理されるべき楽曲(メロディ)というものの存在は、その様子を明確に描写するのが難しく、また他の芸術作品と必ずしも同じように考えることができないことがわかる。これらをより明確にするために、音楽作品(メロディ)の存在とはどのようなものなのかということを表現できるような、メロディの存在論とでもいうべきものを考えたい。*3