毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

本当に「私以外私じゃないの」か? vol.4

ずいぶんと間があいてしまったが、vol.4

この間に哲学的に自分の考えに大きな転回があったことも大きいが、前回までの議論を振り返ると

 

王様と農民の寓話において

 

①元々の心をもったほうが真に王様と農民である、といえる

②元々の体をもったほうが真に王様と農民である、といえる

③それ以外

 

について、①、②がそれぞれそのままの形では受け入れられないということがわかった。

つまり一見、心、ないしは体が入れ替わったようにみえる王様と農民だが、どちらが元々の人と同一であるか、という点に関しては心や体を基準にして語ることはできないということである。

さてそうなると、③の道をとらざるを得ない。③として、可能なの方法はさらに二つに分岐する。要するに、

①と②のハイブリッドを考えるか、まったく別の道を考えるかである。

 

ハイブリッドとして考えられるのは、①と②のどちらの用件も満たす場合にそれらが同一であると考える事である。この場合、王様も農民も少なくとも時間を通じてまったく同一であることは「ありえない」ことになる。これに関しては、①、②それぞれに対しておこなった批判が当然有効になるが、重要なのはそのことよりもそもそも同一であるということが時間を通じて実現する事はないということではないだろうか。このことを突き詰めれば、おそらく現在にあるもの以外は存在しないといった存在論に関する現在主義的な議論に発展するだろう。

 さて、他に考えられる道は例えば、同一であるということをそうであるか否かの二値的なものであると考えず、例えば「近さ」という基準を導入することである(この名称はいまのところ何でも良い)。昨日の王様により近いといえるのはどちらか、あるいは王様というものにより近いのはどちらかということである。これはかなり有効な手段に思えるが、いくつか大きな問題を抱えている。たとえば、名前の問題である。「王様」というときにその名がさしているものは何なのか、という古典的な問題が関連してくるのである。

 ひとまず「私以外私じゃないの」か?という問題に関しては、「私ですら私ではないが、昨日の私に最も近いのは今の私である」と考えることで、新しい解釈の道は生まれるのではないか。