毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

バンドというものが解散するとおこること(の中で知っていること)


 2年前に、2012年くらいからやっていたふぇのたすというバンドが解散して(解散を決めたのはメンバーである自分とボーカルのみこだったので、解散させて、というのが正しいかもしれないけれど)、当時は本当に解散してどうするか、ということなんか2人とも1mmも考える余裕も時間もなくて、続けるべきか解散するべきか、それと解散するとすればどんな終わり方をするべきか、ということを、その時は考えていた。
 自分の感覚としても信じられないことなのだけれど、メンバーだったミキヒコが2015年の5月に亡くなって、そこからふぇのたすを続けるか続けないか決める瞬間までの記憶があまりない。2年以上前のことだから覚えてないということではなくておそらく本当にその間は何も考えていなかったような気がする。それより前のことはよく覚えているし、ミキヒコと最後に話したことも覚えているから。じゃあなんでその数ヶ月のことを覚えていないかというと、そこまでの数年自分はほとんどバンドのことしか考えてなかったからではないか、と今になって思うようになった。だから、急にバンドのことを具体的に何もできない、自分にはどうしようもない数ヶ月がやってきたときに、自分にはすっかり自分の中心にすえて考えることがなくなってしまった。実際にバンドをどうすべきか、ということをみこと一緒に考える瞬間まで本当のところバンドを続けるべきなのか、という本質的な問題は考えられていなかったんじゃないか、とすら思えてくる。
 それで結論を出してみて、自分たちにとってバンドのこれからのあり方が決まったら、後のことは、ある意味でバンドをそれまで応援してくれた人たちのものだから、それに向かって何をすべきか、考えるだけだった。
 解散ライブは、いいライブだったと思う。当日のことはあんまり覚えてないんだけど、ファンの人の色々な声があって、のちに解散ライブの上映会をやれたので、そこで幸運にも自分たちの解散ライブをみることができた。自分たちのつくってきたものが消えて、また蘇って、そしてまた消える。

「バンドが解散しても音楽は残る」という言葉は自分もいったことがあるような気がするし、自分たちのバンドが解散するときもたくさんそういう言葉をきいた。もちろん、それはその通りで、今だってふぇのたすの曲を聴くことはできるし、それはこの時代だからこそなのかもしれない、本当にありがたいことだ。ただ、それでもこの言葉には現実とは、ほんのすこしギャップがある。ただ単に残された音楽というのは、必ずしもそこにあるといえるだろうか。自分にはただそこに漠然と、おいていかれただけの音楽は残された作品だとはいまだにいえない。どうしてかといえば、自分たちがやっていたのは、単に音楽を制作するということではなくて、バンドという活動だったからだ。それは、まさにかいたように、生活のすべてにコミットするようなものだった。
 それでも実際のところ今言いたいのは、「バンドが解散しても音楽は残る」という言葉が、いま嘘のように思えるかというとまったくそんなことはない、むしろそれこそが真実だということだ。
 なぜなら、みこが今、SHE IS SUMMERとして彼女の音楽を続けていて、あの頃信じていた人たちはみんな自分の音楽を続けていて、自分も作詞や作曲、プロデュースで自分の思う音楽を更新していて、それによって2年前に残された音楽もまた、「残されたいま聴ける音楽」としての存在を保ち続けることができているように思えるからだ。バンドは解散しても音楽は残る。
 バンドというものが解散するとおこることの中でひとつ、2年たってこんなことを知ることができた。