毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

批判という言葉の誤用から、ちょっとだけ。

批判、という言葉の扱いが問題になっている。

今井絵理子さんが言うところの「批判なき選挙、政治」というのがまず問題発言ではないか、というところから話がはじまっているようだ。

「批判」というのは、本来の意味は「いろいろな物事を、色々と詳しくしらべたり、議論したりして、判断すること」なので、この意味で「批判なき政治」というと、「政治のその内容について何もしらべたり、議論しないまま、決めちゃいましょう」ということになってしまうので、これはまずい。民主的な政治であれば、とうぜん多くの人が色々な意見を持っているのだから、議論は絶対に必要だし、そもそもたとえば君主制の王様であっても自分の政治を省みて判断することはしているのだから(これを自己批判という)、どんな場合でも批判のない政治はありえない。

この人の言いたいことはおそらく

anond.hatelabo.jp

このブログで言われている通りだろう(言い方はかなりひどいけれど)

つまり、今井絵理子さんのいう「批判」という言葉の意味は「相手を言葉で攻撃すること」というようなイメージなのだろう。
実際この間違った「批判」という言葉の使われ方は蔓延していて、Yahoo!で「批判」を検索すると最初のページに出てくる多くは芸能ニュースなどで、誰々が誰々を「批判して」、炎上したとか、それを後に謝罪したとか、そんなものがほとんどだ。これはすべてこの意味においては「批判」という言葉を誤用している。

 まあこれだけの人が誤用しているのなら、ある意味ではもはや問題なくて、そういうものだと受け止めて聴いておけばいいだけの話である。
 しかしたとえば音楽など人の前にでることをやっていて、もう一つの実感として、本当に他者に「批判されること」(たとえば作品の出来について、否定的な意見をいわれることなど)を極端に嫌がる人がそれなりの人数いる。いい評価をうけなかったとして、それに対してあまりいい気持ちにならないのは当たり前のことだ(自分だってそりゃそうだ)。しかし相手がそのような意見を持つことを拒否することは本来はできないはずである。ちなみにこういう行為をふつう「批評」という。批評さえ嫌がる、批判されることそのものを良しとしない、という人たちがたしかにいて、そういったことがが当たり前になったことによって(つまり批判や批評すらしてはいけない世の中になることによって)、このような言葉の誤用がでてきたのだとすれば、少しいろいろと考え直してみる機会なのかもしれない。