毒か薬か

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音楽作品と著作権とほんの少し印税の哲学(試論)

 

1:動機と構成

 

1.1時間を通じて存在する対象の存在論、または認識に関する問題が元々の研究課題であったが、音楽の知覚はその中でも興味深いものであると考えた。例えばそれが単なる物理的な音であるとして、我々が知覚するのはただ波の一部であってそれは持続しているとはいえないかもしれない。しかし我々はある音を聴いている、ないしはある音楽を聴いているということを直観的に認めている。またそれら音楽作品の同一性についても問題になるといえるだろう

1.2上記の存在論的な議論が、実際の音楽の理解と、たとえば現在の音楽の市場におけるルールや考え方とどのようにリンクしているのかについて、当事者として関心があった。音楽作品の存在論を理解しないままで、例えば音楽の著作権のようなものは考えることができないだろう。現行の著作権法と、業界の慣例も含めて考えてみたい。

 1.3 よって本稿ではまず音楽作品の存在論についてのいくつかの立場を現在の分析美学を中心とした議論から検討する。その後、自身の音楽作品の存在論(集合論的な存在論)を提示し、それらを用いることで現在の音楽作品、特にポピュラー音楽の音楽作品がどのように定義づけられて、それらに関する権利の問題などが説明されるかということを議論したい。

 

2:音楽の存在論

 

2.1音楽の存在論というと、非常に範囲の広いものとなるが、ここで考えるのは「音楽作品」の存在論である。なぜ音楽作品の存在論が問題になるかということは、その他の芸術作品との比較が良い例となるだろう。例えば絵画や彫刻などを考えてみれば、特定の作品はまさにそれを目の前にして指差せば、それが同定されるし、基本的にはそれは一つしかない。(写真のような作品はもしかしたら同じデータをもって同じ作品といえるかもしれないが、それにしても同様のことがいえるだろう)しかし音楽作品は、同じように考えることは出来ない。ベートーベン作曲『ピアノソナタ悲愴』という作品は、通常の意味では一つの作品であるいえるが、世界中のいたるところでそれは演奏されているし、無数の録音が存在する。そのどれもがある意味でベートーベン作曲『ピアノソナタ悲愴』である。また時間的な問題でいえば、絵画はあきらかにある時点において存在するものだが、一方である時点において現れている音楽がまさに例えば『ピアノソナタ悲愴』であるということができるだろうか。演奏を聴いているときに、ある時点だけではどの作品が演奏されているかわからないことがあるだろう。

2.2何人かの哲学者たちの議論を見ながら、音楽作品の存在論を簡単に見ていきたい。音楽作品に対する立場は、哲学史上の存在論的な議論(例えば普遍論争)のように様々なものがあるが、ここではそのいくつかを見てみたい。

 

2.2.1 ロマン・インガルデンの志向説

ロマン・インガルデンによれば音楽作品は「志向的存在(intentional existent)」である。これは音楽作品を単に実在的な対象と見ることや、観念的な対象と見ることとは隔たりがある。作品は演奏とは異なる意味で時間性をもち、またそれによって単に理念的な対象であることも拒否される。

 

「つまり、演奏の一部を構成する音響的な生産物と聴覚的経験の所与とは根本的に異なっているということである。…音響的生産物を少なからず持続する音の連続体として同一性をもつが、経験的所与は絶えず更新されるものである。…これらは相関関係にあるものの、音響的生産物は少なからず経験に対して「超越的」であるといえるだろう。よって音楽作品の演奏とは、まったく意識経験の一部ではなく心理的なものではない。それは作品そのものも同様である。…構造として、意識的経験の超越としての音響的生産物(演奏)、さらにその超越としての作品、という図が見えてくることになる。」(Ingarden(1966)、邦訳pp.29-34

 

また音楽作品の存在の仕方についてのべたIngarden(1966)の第四章をまとめると以下のようにいえるだろう。

 

「音響や、演奏が空間的にかつ時間的に個別化された対象であるのに対して、作品は超個別的、超時間的な構造をもっている。その個別性は、単に質的なものであるといえるだろう。…音楽作品は、ある実在的対象(音響、聴覚的経験の対象)に起源を持ち、別の一連の実在的対象によって連続した存在を基礎付けられているような、純粋に志向的な対象であるといえる。これはもちろん作品が何かしらかの、主観的なものであるということを主張するわけではない。音楽作品は、作曲者の特定の創造的で心身相関的行為によりおこるものである。楽譜は(記譜できないものの存在も考えて)、完全に作品を表現しているとはいえない。…一方で、音楽作品は、これまでの評価からもわかるように決して意識経験と同一ではない。しかしたしかに音楽作品は存在するという見方をとるならば、我々は以下のような思考の筋道を通る必要がある。つまり、音楽作品は、自立的に存在する対象が別に存在する限りにおいて、他律的に存在するものなのである。」(Ingarden(1966)第四章)

 

このような志向的な存在である音楽作品に対しては、視聴する我々は間主観的に到達することが出来るといえるだろう。このように規定される音楽作品の同一性の問題については、明確な回答を与えるとはいえないだろう。この意味では、音楽作品に関しては演奏とは区別される一方で、我々の志向的な対象であるから、その同一性は間主観性によってのみ保障されることになり、厳密な意味での原曲という概念は存在しなくなるのではないだろうか。またそもそも、演奏と作品との間の関係がどのようなものになるのかということが説明されえないといえるだろう。

 

   2.2.2 ジュリアン・ドッドのタイプ/トークン理論

より最近の議論として検討に値するのはジュリアン・ドッド(2007)などの「タイプ/トークン理論」である。この説によれば、通常我々が知覚するのはトークンとしてのsound-sequence-eventであって、それらのタイプが音楽作品といえる、ということになる。

 

「タイプ/トークン理論によると音楽作品はそのトークンがsound-sequence-eventであるような標準タイプである。…その反対者と対照をなして、タイプ/トークン理論は音楽作品の反復性をわかりやすく説明し、音楽作品がその全体として聴かれうることを許容する。」

 

これは、2.2.1で検討された立場に対して、より実在論的な立場であるといえるだろう。ドッド自身は、実際それらの立場をanti-realismであるとしており、これはタイプ/トークンに関する実在論論争とも関係のある問題であるといえる。ドッド(2007)においては、音楽に限らないタイプ/トークン理論そのものの存在論的な議論も行われており、実際それらを受け入れることでsound-sequent-eventのタイプとしての音楽作品(のようなもの)が存在するということは自然に帰結するだろう。次項で検討するが、問題はこのタイプが、実際に我々が普通音楽作品と呼んでいるものと直観的に合致するかという点であるように思える。ドッドの議論によれば、このようなタイプが存在することは確かに正当化されるが、それが直接的に音楽作品の存在を認めることには繋がらないといえるかもしれない。

 

2.2.3 ネルソン・グッドマンの唯名論

 グッドマン自身が存在論的唯名論を強く主張することから、彼の美学に関する著述もまたその唯名論の影響を強くうけているといえる。彼によれば、音楽作品は演奏のような具体的な個物のcollection(集合)である。そしてこれらの演奏されているものの同一性は実際に、楽譜によって保障されているものであるとされる。つまり、特定の演奏などの集まりが作品と呼ばれるものであると同時に、その集まりの内包的な定義が「ある楽譜を再現していること、ある楽譜のinstance実例であること」というのがグッドマンの定義するような、音楽作品の特徴となる。よって彼によれば以下のような強い主張も認められることになる。

 

 「作品の正確な実例として要求されるのはただ楽譜の完璧な追従であるため、まったくミスはないがひどく愚かな演奏もその作品の実例となるし一方ですばらしい演奏であっても一つのミスがあればそれは作品の実例とはいえない」

 

 このような強い主張は我々が音楽作品に対して一般的に持っている直観とは大きく異なるものであるといえよう。ある作品が演奏の集合であり、その内包的定義が楽譜であって、作品というのは唯名論的な意味でのみ存在するというグッドマンの議論は強いコミットメントを必要とするものであると考えることができる。

2.3 これらの中で、音楽の哲学、分析美学などの研究者のなかで最も認めるものが多いのはタイプ説であろう。特にクラシック音楽に関して、このように考えることはそれらの表象に関する我々の日常的な直観に合致する。しかし例えばクラシックにおいても、楽譜というのは音楽作品をなしているものであるように思える(そのように主張する人がいないとはいえないだろう)が、楽譜がタイプであることはもちろん作品のトークンであるということはいえないだろう。それらは明らかに、演奏というトークンとはその立場が異なるものである。

また、タイプとしての音楽作品はドッドによれば、「抽象的」「非構造的」「不変」なものである。しかしながら、ポピュラー音楽の音楽作品は少なくとも不変な対象であるとは思えない。それは常に変化していくものであって、作曲者の他に「編曲」という立場が認められていることからもそのことがわかるだろう。作曲者の手を離れた段階でもまだ楽曲が固定されていないということができる。タイプとしての音楽作品は、このような事実を説明することが出来るだろうか。

2.4 ここでむしろ、音楽作品とは音楽的対象のゆるやかな「集合」であるという考えを用いたい。これはグッドマンのものと近いが、彼がいうような集合よりも、その幅を広げているものであるといえるだろう。

 

特定の音楽作品={演奏1,2…、レコード1,2…、楽譜1,2…、その他}

 

例えばこのような集合について、我々は同一性という問題を扱う必要はないように思われる。なぜなら同一性問題とはつねに二項(多項)関係的な問題であるが、この集合と比較するべきは、同一のレベルの集合だけであってこれらの間の相違は明らかだからである。おそらくここで、このような集合はいかなる存在者であるかという問題は生じるだろうが、これに関しては数学の哲学で扱われている通りの答えしか提示することは出来ないだろう。しかし少なくとも我々はそれを音楽の活動の枠組みの中で使用することは可能であるように思える。これはかなりグッドマンのような唯名論的な見解に結びつけて考えることができる(場合によってはそれに含まれるといえるだろう)。ドッドは集合論的見解に関して、「様相に関する問題」を提示している。ある作品に関して、その表れ(演奏など)は本質的な要素ではないが、一方でそれらはある可能世界においておこりえたものを含むものである。ところが集合に関しては、どんな可能世界においても、実際の要素よりもその集合の要素が多かったり少なかったりすることはない。よって作品は集合ではありえないというのがドッドの議論である。まず、今問題にしている集合論的見解がドッドの批判するような形と異なっており、その理由が単にそれがsound-sequence-eventの集合ではないということである、ということには注意したい。この問題は一つにはルイスの様相対応者理論を用いることで応答できるだろう。そして、むしろ集合に関する唯名論的な立場に立てば、それはもはや同一の名前をもった集合の時間的な同一性の問題になる。この点に関しては、それほど問題にならないだろう。その要素を具体的に列挙して、比較することはこの場合(例えば数学でのそれに比べて)それほど難しいことではないからである。

 

3:実際の音楽作品

 

3.1上記のように、音楽作品の存在論について述べてきたが、実際に現在の音楽作品のあり方を以上のような観点から眺めてみることは、最も意味のあることであろう。そうでなければ、いくらそれがライバル理論の問題点をカバーしているとしても音楽作品の存在論として有効なものであるとはいえないからである。とくに音楽家として、作品の製作そのものを生業とする人々にとって妥当なものである必要があると思われる。さて、クラシック作品に関しては、タイプ/トークン理論はかなりよい示唆を与えているように思われる。実際それらは現在ありえる様々な演奏のタイプとして存在することで元々の作曲者の立場が保存され、志向説で問題になるような原曲と演奏との関係が見えてくる。

3.2むしろ考えてみたいのは現代の音楽特に日本におけるポピュラー音楽の存在論である。これらは、実際には音楽作品に関する集合論によってより正確に表すことが出来るように思われる。

 音楽作品というものの存在が問題になる場を考えてみると、現代ではほとんどそれは権利の主張においてであると思われる。ピアノで「ドミソ」と弾いて、このような行為が音楽作品だと主張しても、それはほとんど認められない(実際にはこれは十分sound-sequent-eventのタイプであると思われるが)。ところが現代の音楽家たちは「著作権」(及びそれに類する諸権利)を持つとして、それによって作品を創作したことの権利をもち、また一部で収入を得ていると思われている。著作権法において著作物は「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」として定義されている。ここで著作者に認められているのはそれらのオリジナルに対する権利であって具体的なものでは必ずしもない。またどの程度のものが著作物であるのか、という点に関して明確な基準は存在しない*1そこで通常はある契約ないしは慣例があって、例えば現代の基本的な音楽の発信手段のひとつであるCDが販売されるとその6%が作曲者や音楽出版社などに配分される。しかし音楽作品に対して所有しているという権利を持つというのはどういうことだろうか。絵画や文章であったら、そのオリジナルを持つこと(そしてそれを作成したこと)がそれにあたるだろうが、例えばタイプとしての音楽作品にしても、集合にしてもそれに対して権利を持つということは非常に不可解なことであるように思われる。ところで、ゆるやかな集合による音楽作品の定義づけは音楽の著作権という現在の捉え方、あるいは印税の支払われるシステムとは相性がよくないように見える*2。ところが実はそんなことはまったくない。つまりむしろ言えることは、著作といわれるものは「作品」ではない、ということなのである。むしろ音楽作品といわれるものは、その著作物を使用することによって、作品たらしめられるものなのである。となると、当然ではそれについての存在論が次に必要になることは明らかだ。しかしながら逆説的に、これらは現在著作権法やあるいは音楽著作物に関する規定によって、規範的に定義されているし、むしろそうとしか定義できないものなのである。あるいは現状の著作物という概念の存在論にたいして問題があると考えるのであればこのような規範的な定義の側を修正していくことになる。であるから例えば音楽家の作品概念、あるいは作品意識というものに照らし合わせて、著作物の存在論、あるいはそこから規定されるさまざまなルールや慣習を判断することはできない、ということになる。*3。規範的ないくつかの概念によって、例えば印税をもらっているとすれば、それは創作の特異性ではなく、社会の中での認められ方であって、それはお金というものの本来のあり方とも矛盾しない。

 

 4:まとめ

 

 音楽作品を「集合」として考えることで、具体的な音楽作品の権利などの取り扱いについて新たな一つの指針を得ることができるように思われる。音楽家はその外延に対してアプローチすることが可能だが、それは著作そのものとは別に考える必要がある。

 そしてまた、ここでは扱うことができなかったが、実際に音楽を認識するということに対しても、その認識の仕方に関して音楽作品概念自体の理解は重要であるように思われる。集合論的な理論によれば、我々が認識するのはその要素であるということができる。そしてその際考えればいいのは、「音楽作品」という抽象的なイメージが伴うものではなく、物理的な音であるとか楽譜であるとかといった具体的な対象(物理的な対象)である。これらに対しては、例えば従来の音に関する物理学的な研究や、形而上学的な研究を行っていけばよいといえる。

 

【文献】

Dodd, J., (2007), Works of Music: An Essay in OntologyOxford University Press.

Goodman, N., (1968), Languages of Art, references are to the second edition (1976), Hackett

Ingarden, R., (1966), Utwór muzyczny i sprawa jego tożsamości, Wydawnictwo, Warszawa, [邦訳]『音楽作品とその同一性の問題』、2000年、安川昱訳、関西大学出版部

Lewis, D., (1986), On the Plurality of the WorldsBlackwell

*1:判例などはある

*2:著作権そのものとしてみれば著作隣接権という考え方はあるけれど

*3:実際にこれが唯一の解決であるのかということには確かに疑問が残る。というのもこれを書いている自分自身の実感として、それでもなお著作物は自身の作品なのではないかという感覚があること、そして記述的に著作物の存在論を語ることもできるような気がやはりするからである。前者に関しては単に個人の感想であると思っても良いが、後者はより本質的な問題であって、実はそれに関して考えがないわけではないけれど、それは別に機会にしようと思う