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毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

本当に「私以外私じゃないの」か? vol.3

前回定式化した問題は

さて、今回はポイントになっている心がいれかわってしまった王様と農民の寓話において

 

①元々の心をもったほうが真に王様と農民である、といえる

②元々の体をもったほうが真に王様と農民である、といえる

③それ以外

 

という主張のうちどれが説得的であるか、ということであった。前回は①について述べたが、今回は②のパターンを考えてみよう。前回述べたように、②はある意味で客観的な視点であるといえる。それは、寓話が示しているように心が入れ替わった他者にとって自然なのは、王様の体をもったほうを王様であると考えることであるように思われるからだ。例えばある朝、自分の父と母が、心がいれかわったといってきたとして、それをまず第一印象としてそのとおりに受け止める事ができるだろうか、と考えてみればこれが自然なことであることはわかる。しかし逆に考えれば、これはその根拠が自然であるという事以外にはないのである。そして自然であるということは、ここでは「必然的である」ということとはまったく関係のないことであろう。つまり我々が普段生活している範囲内で一番起こりえる可能性の高いものを「自然」と呼ぶだけであって、それの物理的、あるいは論理的可能性が否定されるわけではない。例えば毎朝心がだれかといれかわってしまう世界というのは想像できないわけではないし、物理的に不可能ではない。Twitterという世界を考えてみよう。その世界で我々の身体にあたるものはひとつのアカウントである。そして心はそのつぶやきであるとしよう。しかしそのつぶやきを「操作」するのは毎回同じ人間である必要はない。例えば企業のアカウントであれば複数の人間がつぶやきをしていて、それらが複数の人間によるものであるということを我々は十分に理解している。それでいて、そのひとつのアカウントがまさにひとつのアカウントであることを我々はまさにごく自然に理解しているといえないだろうか。

 このようなことを考えると、②を根拠とするのはたとえそれが当事者以外のだれかにとってどれだけ自然であるとしても、その事実自体の根拠になるとは必ずしも言えないということである。

 ではそれ以外に②がスタンダードな解釈であると考える要因をもつような道はあるだろうか。それはもう少し強い主張としてまさにその身体こそが、その人であるということの根拠そのものであると考えることである。しかしこのような考え方には例えばこんな反論がある。それは人間の体を構成する分子は数年の間にそのすべてが入れ替わる、ということである。これがどの程度正しく科学的根拠をもっているのかは保留するとしても、例えば髪の毛一本抜けずに次の日もまったく同じ体でいるということがありえないことは誰にも明白な事実だろう。つまり、身体が今日も明日も「同じである」ということはそれほど当たり前のことではない。逆に我々は何かこの身体の物理的な存在とは別に「自分」といいうものがあって、それに付随する「身体」であるからこそ、分子がいれかわっても、髪の毛がぬけてもそれは同じ自分の身体であると考えているのではないだろうか。

 

 すると、我々がとるべき道は

③それ以外

 

ということになるだろう。つまり王様である、とか、農民であるということは心や体とは別のものによってまさにそのものであることがいえるようなものなのである。

 

次項ではそれが果たしてなんなのか検討する。