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毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

本当に「私以外私じゃないの」か?vol.1


自己同一性の問題は、思想史的にも重要な問いの一つである。  

例えば、以下のような寓話を考えよう。

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あるところに、王様と農民がいた、農民は王様のような裕福な生活を望んでいる、王様は農民のことはよく知らないが普段の生活に退屈している。

ある朝、農民が目を覚ますと周りの様子がおかしい。どうやら、記憶はそのままで王様の髭面の顔と肥満体になって、豪華な王宮にいるようだ。かたや、王様は粗末な小屋で目を覚ました。体もずいぶんやせ細って顔も変わっている、農民というものになってしまったらしい。それぞれの生活に不満を持っていた2人はこれ幸いとそのまま生活を続けた。

しかし、贅沢な暮らしができるようになった農民は良かったが、貧乏暮らしをすることになった王様はすぐに耐えられなくなった。王宮にいき、自分こそが王様である、と訴えた。その姿を見た農民は、訴えてきたのが元々の自分の体をもった人間であると気づいた。つまり心がすっかり入れ替わってしまったのだ。しかし、王宮での生活に慣れてしまった農民は、この訴えを無視した。まわりは誰もこの変化に気づかなかったので、この訴えは取り下げられ2人は心がいれかわったまま、1人は王様として、1人は農民として生活を続けた。農民として生活を続けた方は最後までこう主張した。

「王様の記憶と心をもったわたしが、王様なんだ」

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心がある時突然入れ替わるということの科学的考証は後にするとして(寓話での出来事は科学的にありえないことではないことは明記しておく)、この話を読んで多くの人が「これは納得いかない」と思うのは、

心がいれかわって、貧乏な生活をすることになったほうは実際には「王様」であり、王様になったほうが本来は「農民」である
 
と考えるからだろう。つまり、体ではなく心を受け継いだほうがまさにその本人である、というのが普通の考え方であるということである。実際筆者の記述自体もそのような前提のもとで書かれている。

その前提でいえば、当然王様と農民は体は入れ替わったもののの心が連続しているほうがそれぞれなはずなのだから、最後には元々の王様の心をもっているほうが「王様」として生きるべきだ、ということになる。

読んだ人の違和感としては、この物語はそうなっていないので、おかしい、ということだろう。


物語上は、元々農民の心をもっているほうが入れ替わりを認めなかったことと周りがその変化に気づかなかったことで「仕方なく」、そのようになった、としていたが、実際にはそれらが解決されれば問題はなくなるかといえばそんなことはない。

例えば、元々農民の心をもっていたほうは素直に自分は農民の心をもっています、と認めたとしよう。それでめでたく、2人は入れ替わって農民の姿で王様の心をもったほうが「王様」に、王様の姿で農民の心をもったほうが「農民」になって、ことが済むだろうか。(王様も農民も自分の生活に不満を持っていたから、周りを騙すために嘘をついている、とまわりは思うかもしれない)。
本人たちも周りも認めたとして、本当にそれは「正しく」それぞれのアイデンティティが保たれたといえるのだろうか。本人が認めれば大丈夫だと思う人は、以下の寓話を考えて欲しい。
 
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あるところに、王様と農民がいた、農民は王様のような裕福な生活を望んでいる、王様は農民のことはよく知らないが普段の生活に退屈している。

ある朝、王様は粗末な小屋で目を覚ました。体もずいぶんやせ細って顔も変わっている、農民というものになってしまったらしい。生活に不満を持っていた王様はこれ幸いとそのまま生活を続けた。

しかし、貧乏暮らしをすることになった王様はすぐに耐えられなくなった。王宮にいき、自分こそが王様である、と訴えた。その姿を見た王様は、哀れに思いこの訴えをみとめ、農民の姿をした王様と、王様の姿をした農民が生活を続けた。しかし農民になったほうはやはり途中でまた貧乏に耐えきれなくなったが、二度と王様に戻ることはできなかった。王様として生活を続けた方は最後までこう主張した。

「王様の記憶と心をもったわたしが、王様なんだ」

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さて、この寓話では最後に農民になった側の心的な描写がない。もしその内容が、前述のものと同じであれば、上記のようにある程度この話は納得できる。ところが、こう考えることもできる、  

「心が入れ替わったと、農民の姿になってしまった王様が目覚めた朝、王宮では王様がいつもどおり目覚めていた。」

と。

つまり、心は入れ替わったのではなく分離したのだ。昨日までの王様の記憶と心をもったものが2人いる。王宮で目が覚めた方も、小屋で目が覚めたほうもどちらも王様の記憶と心をもっている。
さてこの場合どちらが、本当に王様であるといえるのだろうか。 先ほどまでのように、心が連続していることが肝心であるとすれば、この2人はどちらも「王様」である。
しかし、これでは同じ人が2人いることになってしまう。私以外にも私がいることになってしまってよいのだろうか。

次項ではこの点について、どのような解釈が可能か検討する。