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毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

「論理的とは何か1」

「論理的に正しい」という言葉がある。この言葉については、これまでに色々なところで書いているが語り尽くせないほどに多様な意味を持っている(論理的に正しければ意味は一つのような気がするのが不思議である)。今回は論点は「演繹と帰納」である。

 推論、つまりある事柄を示そうとしたときに普通、人が選択する方法は「演繹的推論」か「帰納的推論」のどちらかであろう。そうでない、という人はその内容を説明してみてほしい。だいたいどちらかの方法で説明することになる。このふたつをわかりやすく言えば

「演繹的」というのは、一つのルール、決まったこと(つまり少なくともその世界では絶対に正しい事柄)から、別の新たな内容のことを導くことである。例えば、「ソクラテスは人間である」という文と、「人間は必ず死ぬ」という文がどちらも正しい事柄であるとすれば、そこから「ソクラテスは必ず死ぬ」という新たに(本当に「新たに」なのかはよく考えてみよう)正しい事柄が導かれる(これはそのような方法論のひとつで「三段論法」という名前がついている)。

 

一方「帰納的」というのは、いくつかの事実から、一般的な一つのルールを導くことである。似たような例で言えば「ソクラテスは必ず死ぬ」、「プラトンは必ず死ぬ」、「アリストテレスは必ず死ぬ」etcなどを集めていって、「人は必ず死ぬ」という一つの一般的なルールを導くといったような感じである。

 

ところで、こう書くとある程度普通の感性をもった人なら本当に論理的に正しいのは「演繹的推論」の方だけなのではないかというように思うのではないだろうか。上記の三段論法は、見た感じこれらを否定することはできなそうである。(前提の「人は必ず死ぬ」は正しくない場合もある、と思うかもしれないが、あくまでもこれは前提であり、これが必ず成り立つということをスタートにしていることに注意)。しかし一方「帰納的推論」はいくらソクラテスプラトンアリストテレスと、他にどれだけたくさんの人間をあつめてそれらがいつかは死ぬということをいったところで、もしかしたら世界のどこかには不老不死の人がいるかもしれないという可能性をぬぐえないのだから、「人は必ず死ぬ」という結論は必ずしもでてこないのではないか、と考えるのはそれほど変なことではないだろう。

 しかし、たしかにこのどちらもを我々は普通に使っている。というよりも大概の場合、「帰納的推論」のほうを使っているといってもよい。私たちが事実正しいと思っていることのほとんどは「帰納的推論」による。(例えば明日も地球は太陽のまわりをまわる、とか)。そう思わないという人は、日常生活の中で演繹的に正しい事実の例を考えてみるとよいだろう。

 とりあえずここまでのところ、所謂論理には大きく分けて二つの種類があるということを確認して、今後の話を読んでください。(続く)