毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

他者とは何かーふぇのたす「スピーカーボーイ」セルフレビュー

我々の社会性一般は普通「私」と「世界」の関係性として議論される。

私たち個人個人は、社会の中でそれを一つの超越であるととらえると共にまた自分もその一部であると考えることで、社会を一個の集合体であるとともに一応はそれをたんなる外部性としてではないものとして扱うことが可能なのである。

 

翻って、私たちの恋愛一般を考えてみるとそれは「私」と「他者」の関係である。他者は本質的には普遍的一般性からの超越であり、私たちは恋愛の対象を自分ではない他であると考える。しかし、実際には他者とは単なる他、つまり自分と異なるものではない。

 

私たちが他者をまさに他者であるとしてとらえるためには、それを「他我」であるという前提が必要だ。私たちの恋愛そのものを可能にしているのは、私たちがまた一般的な主観性としてとらえていっる自己とその同一性を、他的な存在者もまたもっていると捉えているという事実である。つまり他者が本質的に自分自身と同レベルの存在者であると考えるからこそ、それが我々にとって可能になるのである。フッサールがいうように、「他者体験は間接的に与えられる」ものであるとしてそれを前提としても、やはりおなじことで我々にとって間接的に与えられたものをまさに自分と同じような存在者が体験する、ということを体験することでそのようなあり方に納得することができる。もちろん、この場合にいっていることは他者が自己の中に存在するということではない。むしろレヴィナスがいう「他者の絶対的他者性」は保たれる。そのギャップを確かめる作業こそが、恋愛であるように思えるからだ。

 

ところでそのように考えてみると、なぜ世界もそのような「絶対的他者性」として捉えることができないのかというように思えてしまう。それはやはり、社会が「自己」を含むような形での外部であるからだろう。であるから、世界の構築に関して我々は恣意的な要素から自由でいられない。独我的であるということは、むしろ社会的な文脈ではその社会を自分の側に引き寄せることになっているといえよう。しかし現実に我々が考えるべき社会は十分すぎるほどの絶対的他者からなっている。それらの総体としての世界は結果論として尊重されるべきだとしても、今念頭におかれるべきではなく、そしてそれができないであろうことは、まさに我々の体験が絶対的に主観的であることからもいえる。であるならば、私たちは他者への恋愛と同じように、その超越への恋愛も可能となるはずだ。

 

だからこそ私は「独我的であるが故に、他者のためである言葉」に耳を傾けようと思うのだろう。