毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

運と確率


結構大事なことを決めるのに、そんな条件で決めてしまっていいのかと思うことは多い。(結婚などもそのひとつだが、その議論は多くの危険を伴うので今回は割愛する。)

例えば、サッカーは試合の最後まで決着がつかないとPK戦で結果を決める。知らないひとのためにいっておくと、サッカーとは11人対11人でお互いのゴールにボールを入れ合う数を競うスポーツである。PK戦はゴールキーパーとボールを蹴る人間の1対1の対決だ。

先ほどまで所狭しと走り回って雌雄を決していた各チームが、急にとまったボールをゴールにいれるゲームで勝敗を決めることにするというのはなかなか変わった趣向だ。

きくところによれば、PKというのはほとんど運のようなものだという。プロのゴールキーパーと小学生が対決するならまだしも(小学生のプロはいないとして)、PK戦にまでなるようなレベルの近いもの同士のPKでどちらが勝つかはほとんど時の運であり、PKの失敗などで負けた場合もそれが各選手の責任になることはない(なんと公式の試合記録はPKまで行った場合は引き分けになるくらいだ、あくまで大会の形式上どちらが次の試合に進むのか決めるのが目的なため)。

だが、それならばなぜくじびきではいけないのか。
そこには漠然とPKにはサッカーの実力的な要素が皆無ではないという前提がある。
しかしそれならば、それまでの試合の文脈とはほとんど関係ないゲームで勝敗を決めるというは実に不可解だ。

さて、じゃんけん。日本では割と多くのことを(特に子供の集団の中では)じゃんけんの結果で決める。知らないひとのためにいっておくと、じゃんけんはグーチョキパーの強弱が三すくみになっているの手の形を同時に出すことで、勝敗を決める。この時前提はじゃんけんは確率的に公平なゲームということである。
しかしじゃんけんは最も理想的な状態で行われた場合はそうであるにしても(対戦者が手を同時に出す。など)、ほとんどそれは不可能で実際にはどちらかに有利に働くように出来ている。極端な話、動体視力と反応速度が平均よりもずっと高いひとがいれば彼はじゃんけんにおいて圧倒的な優位性をもつ。要は、相手の手を「みて」から決めればいいのだから。
またあいこ(相手と手がかぶること)の後の複数回の対戦は心理的には純粋な独立試行とは言えないものだ。ずっとパーを出し続ける相手に何を出すのか。
準備がいらないという圧倒的な利便性はあるにせよ、あきらかに力に優劣のあるゲームで小学生くらいは色々なことを決めているのを見て、よくそれで納得できるね、と誰か一人くらい言い出さないかと期待している。