毒か薬か

基本的に週に一回の更新です。毒か薬にはなることを書きます。

J-POP恋愛論 1.0「恋愛の初期的段階」について

J-POPの楽曲から恋愛を取り出すにあたって、いくつか基本的に共有しておくべき事項があるだろう。もちろん、本稿全体で述べたいのは日本人的な(あるいはJ-POPのリスナー的な)恋愛のモデルが存在し、それを実証出来るというようなことではない。しかしながら、楽曲の歌詞を分析していくなかで当然そのようなある程度形式化された上で受容されている恋愛の形があり、またそれを前提にして作られた楽曲もあるということは明白であろう。

 ここでは、「恋愛の初期的段階」という語を用意したい。恋愛の初期的段階は、物理的な、つまり例えば出会いから付き合うまでといった時系列的な初期性を表すのではなく、あくまで「恋愛に対する」態度の問題である。

 スタンダールが恋愛の経過を七段階にわけるときに、「第一の結晶作用cristalisation」と呼ぶ段階までの状態と、ほとんど同じであると考えてよいだろう。この段階においては、基本的にその恋愛は理想的な状態であり、相手の良い点、あるいはこの恋の非常にポジティブな面のみが現れてくる。そのような心的段階は、物理的関係としての恋愛のどのような時点まで存在するかはわからない。最初だけ、本当に突発的にそのようなものが生まれることもあれば、永遠にそのような状態がつづくと思うこともあるだろう(それはほとんど錯覚だろうが)。このような段階の特徴として考えられるのは、ある種の「自分勝手さ」である。恋愛はその発生過程からいって、基本的に主体的なものである。現代のJ-POPが受容されている社会において、我々は自由恋愛を前提としており、誰が誰をいつどんな場所で好きになってもそれ自体には倫理的な問題はない(例えば結婚している相手を好きになったとしても、それ自体は倫理的問題はないと考えるだろうし、そもそもそれを問題化させる方法が存在しない。倫理的な問題は、ある程度の度合いで法的な規制との相互関係にあるが、そもそも法的規制は方法論的にそれが実践される可能性がある対象にしか向かわないから人の心的態度に対してそれを問題視するのは公的には不可能であろう。また、そうでなくても実際にそれらが問題である、と考える人はいないだろう)。よって当然、誰かのことが気になり始める、好きになるというのは自分の気持ちとして主体的にスタートすることになる(「好きといわれると、好きになる」ということもあるだろうが、それにしても別に考える必要はない。ところで、そのようなテーマの楽曲がほとんど存在しないのはなぜだろうか)。

 有り体にいえば、恋愛の初期的段階というのは「自分の「恋愛への理想」が、今現在進行している恋愛において実現されている、あるいはされるだろう」と思っている段階のことである。この段階においては、その「理想」に当てはまる、あるいは無理にでもそのように解釈出来るもののすべてが重要さをもつことになり、その恋愛の中で意味を与えられる。

 例えば恋愛の初期的段階における「一本の電話」と、そうでない段階(まだ定義していないのだが、初期的段階でないと思えばとりあえずよい)の「毎日の会話」のどちらに意味を見いだすか(たとえば「思い出に残っている」のはどちらか」)といったことだろう。

 このような初期的段階が、ある一定程度の時間続くことを「純愛」あるいは「一途」といった言葉で表すこともできるかもしれない。今風にいえばその時間が短いことを「チャラい」ということもできる。しかしおそらくどんな恋愛にもこのような初期的段階は存在する。いきなり、恋愛がその次の段階からはじまるということは考えにくいだろう。前述した通り、スタンダールは、恋愛を段階的に見た時にこの初期的段階にあたるものを以下のように分類している。

 

①感嘆

②自問

③希望

④恋の発生

⑤第一の結晶作用

 

①、②は恋愛の対象に出会ったことによる喜び、確認である。また③ではその確認をよりたしかなものとして、検討することになる。これによって④でこれが恋として同定される。恋が発生すれば、「第一の結晶作用」がおこる。第一の結晶作用についてスタンダール

 

ザルツブルグの塩坑では、冬、葉を落した木の枝を廃坑の奥深くに投げこむ。二、三ヶ月して取り出してみると、それは輝かしい結晶でおおわれている。山雀の足ほどもない一番細い枝すら、まばゆく揺れてきらめく無数のダイヤモンドで飾られている。元の小枝はもう認められない」(スタンダール『恋愛論』

 

と、書いている。つまり、恋愛が発生することによってその恋愛対象を美化し、その本来の姿は見えなくなるということである。

 J-POPにおける恋愛の初期的段階は、この第一の結晶作用をより広義に解釈したものである。つまり、この結晶作用は「恋愛」そのものに対しても起こりえると考える。恋愛対象を、美化するということもありえるが、一方で恋愛の初期的段階であらわれるのは自分がしている「恋愛」そのものも美化し、それらのポジティブな点を代表しているいくつかのことを重要視し、またネガティブな点については目をつぶるか、あるいはそれほどネガティブでないと解釈をすることになる。登場人物たちが美しく彩られるのと同様に、その絵画をかざるフレーム自体が「ダイヤモンド」で飾られているのである。これを以下では「恋愛に関する「恋愛の初期的段階」」とよぶ。

 これはあるいは、「歌詞」という客観的視点を用いるために必要となることなのかもしれない。いずれにしても以下ではこのような状態を「恋愛の初期的段階」として、いくつかの恋の歌をみていきたい。

 

J-POP恋愛論 0.3「各章の構造」

以下では、恋愛のいくつかの段階、あるいはいくつかの場面に応じて、それに対応した曲を恣意的に選択している。この選択に客観性を持ち込む必要はないと判断した。その中でも一応前提したこととしては前述通り、ヒットチャートから楽曲を選択した事である。これは記述上の問題から、多くの人がそもそもその歌詞を把握している必要があるということもそうであるし、またもう少し踏み込めばそれらが人口に膾炙したことには何かしらの意味があると考えたからかもしれない。

 しかしそのような段階、あるいは場面が何か一定の意味をもっているとかその順番が何かを前提している、ということはないと少なくともこの時点では表明しておきたい。

 

 

J-POP恋愛論 0.2「恋愛とは何か」

 前節でも書いたように、恋愛はそれを現象としてみればある文化的な枠組みのなかで表現されるようなものである。たとえば、現在では多くの日本人は結婚の前提として恋愛があると考えるだろう。しかしこれは歴史的に見れば異常な状況である。かつて結婚は、ほとんど生得的に決定されたようなものであったし、今でもそのような結婚は世界のいたるところで存在する(もちろん日本にもある)。結婚とは制度的な概念であるが、その前提としてともすれば感情の問題であるといえる恋愛がおかれているのも不思議な状況といえるかもしれない。しかし、結婚は愛し合うもの同士がする、というのは今の日本においてはまったく自然なこととして受け入れられている。このように恋愛も、我々が位置する文化の中で、ひとつの文化的現象として他の概念と結びついている。例えばあるカップルの恋愛のはじまりをえがいた楽曲があったとしたら、この二人がこの後どうなるのかということを想像したときに例えば「付き合いはじめる」とか「その後結婚する」というようなことがイメージ出来るが、そのどちらであってもある文化の中での概念に結びついている。

「付き合う」というのは制度的なものではなく、個人の約束のレベルだが、今我々の通常受容している文化の中でも「二人以上の人と付き合ってはいけない」とか「付き合う、別れるという時系列的なポイントでは相互の了承が必要である」とかといった暗黙のルールがある。これらは、少なくとも制度的には、あるいは論理的にはそうでなくても良い(筆者がそう思っているということではないので注意)のだから、当然あるコミュニティの中でしか認められない。しかしそのような前提のもとで恋愛の楽曲を論じたのでは、まったくただの抽出になってしまう。前節でも述べたように、J-POPの恋愛を扱う理由はそこにある。つまりある程度の恋愛に関する前提としてのルールや、基本概念をもっていることを確認した上で、それらの多様な現れを分析するのと同時に、実際にそのような前提やルールは誰にとっても自然なものなのかということや、それらを破るようなストーリを見ていくことこそを以下での目的にしたい、ということである。

 であるから、ここで恋愛とは〜である、というように定義付けすることは控えておきたい。これらは各曲の分析をしていくなかである部分では明示的に、ある部分では非常に微妙な形で現れていくものである。

J-POP恋愛論 0.1「J-POP」とは何か

 さて、以下ではJ-POPの恋愛論を扱うが、果たしてJ-POPとは何だろうか。このような問題はこのような短い節ですべて書ききれるものではなく、それだけでひとつの論稿がかけるテーマではあると考えられるが、ここではあくまで以下の議論のために簡単な定義をしておきたい。

 まず具体的には日本のレコード会社(今回扱う楽曲はすべて国内のメジャーレーベル、と思われるレコード会社から発売された楽曲である)から楽曲がでていること、また日本人のアーティストであること(この点は微妙な部分もあるが、日本で日本にすむひとにむけて活動を展開しているという程度で考えればよい)。かつて歌謡曲といわれていたものも以下ではこれに含まれることとする。

 このような具体的な線引きが重要になるかどうかは必ずしも明確ではないが、重要なのは以下の点である。

それは、

 

・ほとんど多くの日本人にとって、楽曲が(歌詞の意味内容が)自然に受け入れられる

 

ということである。これは言語的な意味では日本語中心で書かれていること(もちろん以下で扱う楽曲には英語詞が現れるものもあるが、それにしても普通程度の英語教育をうけていれば理解出来るもの、あるいは全体の理解には影響しないものであると考えたい)。これは恋愛というある種の文化的な概念が、言葉を媒介にして理解されている、という事情による。もちろん多文化感の恋愛は存在するが、それらもある言語を媒介に理解されているのは事実であろう。日本人は普通、日本語で思考する。楽曲に使われる言語的な表現が、通常の意味で共有出来るかどうかをJ-POPの基本的な定義としたいのはこのような事情である(無論、このような定義から漏れるがJ-POPであるといえる曲はありえるだろう。このような楽曲に関しては本稿で扱う範囲ではない)。以下で扱う楽曲のほとんどは日本人ミュージシャンによって、日本語詞で歌われている楽曲である。

 

J-POP恋愛論 はじめに

以下ではJ-POPにおける恋愛について論じる。

J-POPの多くの楽曲の歌詞は、恋愛についての歌詞である。この点に関して詳しく統計をとったわけではないが、例えばCDセールスがピークだったと言える1998年の年間チャートトップ10を見ると、そのうち8曲はかなり控えめに見ても恋愛の曲と言える(残り2曲も、そういえなくもない)。歴代のトップセールスをみても、上位50曲のうち少なく見積もっても、7割は恋愛の曲である。(ただし1位と4位がどう読んでも恋愛の曲ではない「およげ!たいやきくん」と「だんご3兄弟」であることは特筆すべき事項であろう)。

 我々の日常にあるのは恋愛だけではない。その他様々な要素が絡み合って、日常生活が成立している。しかし本来何を歌ってもいいはずの音楽で、かなり多くの割合で恋愛の歌が歌われているということはどういうことなのだろうか。

 もちろん恋愛の曲こそがヒットする、という点は見逃せない。恋愛をえがくことはヒット曲であることの必要条件である、というのは自身も作詞をしたことがある立場として少なからず実感する部分ではある。しかしそれは構造の内部での一面的な姿でしかない。つまり、恋愛をテーマにすることがヒットの必要条件であるという論理の、メタ的な構造を考えることは不可能ではないということである。(当然注意したいのは、それらが恋愛をあつかったから、あるいはその歌詞だったからヒットしたわけではないということである。翻って以下の議論は「このような歌詞であるからヒットした」というようなことを論じるものではない、ということを明記しておきたい)。つまり、恋愛の楽曲が多くの人にとって受容された理由は、少なからず明文化できるのではないかということである。そのようなヒットの構造を探すことが目的ではないが、一方でそれらが議論の一部において無視出来ない役割を果たしていることも事実である。無論それは、当然後述の各論の中で現れてくるものではあるが、いかに数点あげておきたい。

 

 恋愛がテーマになりうる3つの理由

 

①恋愛はだれにとっても可能なものである(社会的普遍的)

②恋愛は追体験が可能である(時間的対称性)

③現実的に起こりえることである(物理的現実性)

 

 ①は②および③の根幹になっているといえるが、以下の議論でも度々でてくるといえる恋愛が楽曲のテーマ足りうる最大の特徴である。つまり、歌詞で歌われる恋愛はそれを聴く人間にとって「これは自分のストーリだ」と思うことである。たいやきになって海に逃げるというストーリは独創的だが、自分がそのような立場になることは考えにくい(メタファーとしてはもちろん様々な場面が想定されるし、であるからこその大名曲であることは今更書くまでもないことだが)。一方で、誰かのことを好きになったけれど、その想いをうまく伝えられない、といったような状況はまったく日常的なものである。普遍的であるが故に、それらは理解しやすいテーマとして受容されることになる。

②はそれらが、さらに受容された後に自分の体験として現れる可能性である。そのときは理解出来なくても、いずれ理解する、あるいはいずれ体験する世界にむけての存在として歌詞が受け取られることは多いだろう。子供向けの曲の多くが非現実的な状況を扱っている理由は、恋愛自体も非現実である子供にとってはある意味でどちらも同じ非現実であり、それならば空想的なものとしても多少なりともインパクトのあるものをテーマにするという力学が働いているのかもしれない(子供向け楽曲に関しては、深くは立ち入らない)。その子供たちにしても、いつかは恋愛の楽曲の意味内容が自分のためのストーリに思えるかもしれない。

 ストーリという言葉を使用しているが、これ自体も恋愛の時間的な受容を表現している。恋愛は多くの人にとって「うまくいかなかったことがうまくいく」「最初はよかったがだんだんとダメになる」「おもいがけない出会いがある」など、ある程度自ずから話に流れとオチがつくことが多い。つまりある程度のストーリが包含されているのである。それが恋愛であることによって、自ずからもつ時間的な構造は楽曲が成立するための重要なファクタのひとつになっている。

 ③は重複する内容と思われるかもしれないが、これは歌い手、あるいは表現者にとっての立場としてもそうであるということである。聴き手にとって、重要視されることのひとつとしてその楽曲がそのアーティストにとってリアリティのあるものなのかという観点がある。アイドルが不倫の歌を歌う、ということはない。それはそのような楽曲がアイドルという構造そのもののリアリティから乖離しているからだろう。聴き手に求められていないものというのは少なからず存在する中で、恋愛というテーマは比較的歌い手、あるいは作り手にとってのリアルから遠くないところにあるといえる。

 

 さてこのように、恋愛が楽曲のテーマとして扱われるのは非常に簡単にみてもいくつかの理由があるが、当然その内容は非常に多岐に及ぶ。上にあげた3つの理由からさらに導かれることとして、テーマとしての恋愛の「多様性」は4つ目の理由となりうるだろう。これこそが、恋愛の楽曲が無限に存在する理由でもある。以下で扱うのも、このような多様性の中で恋愛がどのように描かれ、それがどのように受容されているのかということ、またそれらは現実的な恋愛に対する人々の態度とどう関連しているのかということである。これらの分析によって、我々のどのような恋愛が楽曲としてえがかれているのか、あるいはどのような恋愛が楽曲のなりたちに影響をあたえているのか、そして今後どのような楽曲がありうるかということを考えていくためのヒントになるだろう。

 

 「ヒット曲=名曲、あるいは分析に値する曲」、というのはいささか乱暴であるが、一方でヒットしていることが人口に膾炙しているということはまぎれもない事実である。そして、多くの人が知っているということは、これらの楽曲がその人たちの間で相互に影響し合っている可能性は高い。議論としての飛躍を覚悟で言えば、これらの楽曲の歌詞は我々日本人の恋愛観に影響を与えているし、我々の恋愛観が多くのヒット楽曲に影響を与えているといえるだろう。また扱う楽曲に関して、ヒット曲を前提にしているその他の理由としては扱う恋愛の内容が筆者が予め前提としている何かしらの恋愛のモチーフにそった楽曲を選んで論述しているということではない、ということを示すためでもある。あくまでも、テーマとして描かれている恋愛を自然な形で取り出して、それらがどのようなものであるのか分析することを目的としたい。

 以下では各年代のナンバーワンヒット曲を中心に、オリコンCDシングル歴代売り上げランキングトップ200以内の曲を参考に、J-POPにおける恋愛論を考えていきたい。

 

本当に「私以外私じゃないの」か? vol.4

ずいぶんと間があいてしまったが、vol.4

この間に哲学的に自分の考えに大きな転回があったことも大きいが、前回までの議論を振り返ると

 

王様と農民の寓話において

 

①元々の心をもったほうが真に王様と農民である、といえる

②元々の体をもったほうが真に王様と農民である、といえる

③それ以外

 

について、①、②がそれぞれそのままの形では受け入れられないということがわかった。

つまり一見、心、ないしは体が入れ替わったようにみえる王様と農民だが、どちらが元々の人と同一であるか、という点に関しては心や体を基準にして語ることはできないということである。

さてそうなると、③の道をとらざるを得ない。③として、可能なの方法はさらに二つに分岐する。要するに、

①と②のハイブリッドを考えるか、まったく別の道を考えるかである。

 

ハイブリッドとして考えられるのは、①と②のどちらの用件も満たす場合にそれらが同一であると考える事である。この場合、王様も農民も少なくとも時間を通じてまったく同一であることは「ありえない」ことになる。これに関しては、①、②それぞれに対しておこなった批判が当然有効になるが、重要なのはそのことよりもそもそも同一であるということが時間を通じて実現する事はないということではないだろうか。このことを突き詰めれば、おそらく現在にあるもの以外は存在しないといった存在論に関する現在主義的な議論に発展するだろう。

 さて、他に考えられる道は例えば、同一であるということをそうであるか否かの二値的なものであると考えず、例えば「近さ」という基準を導入することである(この名称はいまのところ何でも良い)。昨日の王様により近いといえるのはどちらか、あるいは王様というものにより近いのはどちらかということである。これはかなり有効な手段に思えるが、いくつか大きな問題を抱えている。たとえば、名前の問題である。「王様」というときにその名がさしているものは何なのか、という古典的な問題が関連してくるのである。

 ひとまず「私以外私じゃないの」か?という問題に関しては、「私ですら私ではないが、昨日の私に最も近いのは今の私である」と考えることで、新しい解釈の道は生まれるのではないか。

 

 

本当に「私以外私じゃないの」か? vol.3

前回定式化した問題は

さて、今回はポイントになっている心がいれかわってしまった王様と農民の寓話において

 

①元々の心をもったほうが真に王様と農民である、といえる

②元々の体をもったほうが真に王様と農民である、といえる

③それ以外

 

という主張のうちどれが説得的であるか、ということであった。前回は①について述べたが、今回は②のパターンを考えてみよう。前回述べたように、②はある意味で客観的な視点であるといえる。それは、寓話が示しているように心が入れ替わった他者にとって自然なのは、王様の体をもったほうを王様であると考えることであるように思われるからだ。例えばある朝、自分の父と母が、心がいれかわったといってきたとして、それをまず第一印象としてそのとおりに受け止める事ができるだろうか、と考えてみればこれが自然なことであることはわかる。しかし逆に考えれば、これはその根拠が自然であるという事以外にはないのである。そして自然であるということは、ここでは「必然的である」ということとはまったく関係のないことであろう。つまり我々が普段生活している範囲内で一番起こりえる可能性の高いものを「自然」と呼ぶだけであって、それの物理的、あるいは論理的可能性が否定されるわけではない。例えば毎朝心がだれかといれかわってしまう世界というのは想像できないわけではないし、物理的に不可能ではない。Twitterという世界を考えてみよう。その世界で我々の身体にあたるものはひとつのアカウントである。そして心はそのつぶやきであるとしよう。しかしそのつぶやきを「操作」するのは毎回同じ人間である必要はない。例えば企業のアカウントであれば複数の人間がつぶやきをしていて、それらが複数の人間によるものであるということを我々は十分に理解している。それでいて、そのひとつのアカウントがまさにひとつのアカウントであることを我々はまさにごく自然に理解しているといえないだろうか。

 このようなことを考えると、②を根拠とするのはたとえそれが当事者以外のだれかにとってどれだけ自然であるとしても、その事実自体の根拠になるとは必ずしも言えないということである。

 ではそれ以外に②がスタンダードな解釈であると考える要因をもつような道はあるだろうか。それはもう少し強い主張としてまさにその身体こそが、その人であるということの根拠そのものであると考えることである。しかしこのような考え方には例えばこんな反論がある。それは人間の体を構成する分子は数年の間にそのすべてが入れ替わる、ということである。これがどの程度正しく科学的根拠をもっているのかは保留するとしても、例えば髪の毛一本抜けずに次の日もまったく同じ体でいるということがありえないことは誰にも明白な事実だろう。つまり、身体が今日も明日も「同じである」ということはそれほど当たり前のことではない。逆に我々は何かこの身体の物理的な存在とは別に「自分」といいうものがあって、それに付随する「身体」であるからこそ、分子がいれかわっても、髪の毛がぬけてもそれは同じ自分の身体であると考えているのではないだろうか。

 

 すると、我々がとるべき道は

③それ以外

 

ということになるだろう。つまり王様である、とか、農民であるということは心や体とは別のものによってまさにそのものであることがいえるようなものなのである。

 

次項ではそれが果たしてなんなのか検討する。